[HOME] > [神社記憶] > [九州地方] > |
|
末吉宮
すえよしぐう
沖縄県那覇市首里末吉町
|
||
沖縄県那覇市にある。
首里城の北、浦添市に近い末吉公園内。
モノレールの通る道に公園入口があるが、
公園中央部を東西に川が流れており、谷状態の公園なので、
対岸の山の山頂付近に、赤い社殿がかすかに見える。
公園の整備された階段を下り、橋を渡って上り。
途中で整備された道が途絶え、山道になる。
山道を登ると、末吉宮跡の石碑。
そこから左折すると参道が延びている。
参道の山道を登っていくと、右手に社務所。
正面にトンネルのようなものが見えてくる。
このトンネルが、社殿までのアーチ橋階段の下の部分にあたる。
社務所横から石段を登ると祭場がある。
この石段を磴道というらしい。
本殿は少し離れた岩盤の上にあり、祭場と社殿の間を
アーチ状の石の階段でつなぎ、高床状の拝殿が乗っている。
この石階段は登ってはいけないようだ。
案内板には、社殿に近づくと警報装置が作動するとある。
尚泰久王代の1456年頃、
首里の天界寺住持鶴翁和尚が、大和での修業中熊野権現を崇信。
帰国後は、熊野への参詣が許されなかったが、
夢のお告げに熊野権現が現われ
首里より北方の山に大声で呼び、応ずる場所に霊験があると告げた。
国王にも同様の夢の告げがあり、その地に
社を創建したのが、当社の創祀。
琉球八社の一つ。
琉球八社とは、明治以前琉球国府から特別の扱いを受けた八つの官社で、
波上宮・沖宮・識名宮・普天満宮・末吉宮・八幡宮・天久宮・金武宮のこと。
アーチ橋の奥には、ブロックを並べたような幾つかの拝所がある。
沖縄の神社では、社殿そのものではなく、周囲の石や樹木を拝むようだ。
神社という形態ではあるが、基本的には御嶽なのだ。
御嶽とは南西諸島での「聖地」の意味だが、
具体的には、石や樹木の前に座って拝む場所。
公園の奥に社殿が見える |
参道入口の石碑 | 参道 | 社殿階段下のトンネル |
境内 |
本殿 | 社殿 |
末吉宮の下方には、末吉宮の神宮寺で俗に「末吉の寺」と呼 ばれる遍照寺(もの万寿寺)の跡がある。この寺は山号を大慶 山といい、真言宗に属し、沖縄における神仏混淆の信仰形態を 知るうえで重要な資料である。また、社殿の周囲の崖下には点 々と拝所が設けられ、信仰の対象となっている −参道石碑より− 末吉宮
俗に「社檀」と称し、「冊封使録」には末吉一帯の丘陵を「亀山」と呼称した。「大慶山権現」「末吉権現」「末吉神社」等の記録も見られる。社は尚泰久王時代(一四五四〜六〇)に首里の天界寺僧鶴翁が大和での修業中、熊野権現を崇信、学問成就せばさらに参詣することを誓った。帰国後参詣を願い出ても国王が許さなかった。あるとき、夢に熊野権現が現れ、これより北方の山に大声で呼び、応ずるところがあれば霊験ありという。果して前山に応ずる声があったが、そこは険阻で人跡のおよぶところではない。登る途中一鬼面出現したので、鶴翁叩首九拝する。その旨を国王に言上すると同様の霊夢があったという。そこで神社をその地に創建、鶴翁が見つけた古鏡を宮内に蔵した。本殿は三間社流造り本瓦茸で磴道も含め昭和十一年国宝に指定されたが、沖縄戦で破壊された。昭和四十七年本殿及び磴道が復元されて、同年五月には国史跡に指定された。社殿は末吉公園内にあるため車の便は悪いが緑の多い森林に囲まれた景勝地である。−『平成祭データ』− |