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粟井神社
あわいじんじゃ
香川県観音寺市粟井町1716
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香川県観音寺市にある。
観音寺駅から東南へ5Kmほどの粟井の地。
藤目城跡のある藤目山(136m)の麓。
粟井川を堰きとめて出来た、岩鍋池の畔に鎮座している。
往古は、岩鍋池の南岸あたりに鎮座していたが、
大同二年焼失し、その後、現在地へ遷座した。
当社は、新名所づくりとしてアジサイ500株を植えた
アジサイの里として有名だそうだ。
平成になって大改築が行われ、
境内も社殿も、新築の匂い。
創祀年代は不詳。
刈田大明神とも称された神社。
社名に示す通り、阿波より迎えたと考えられ、
祭神も、阿波忌部氏の祖・天太玉命。
一説には、安房から迎えたとも。
粟井は、安房居の意味とする説もある。
当社が遷座してくる以前にあった杉尾神社は、
境内社の奥に残っている。
境内の左には境内社が並ぶ。
須賀神社、杉尾神社、稲荷神社、龍王神社、荒魂神社、
與禮神社、飛羅岐神社、地神社、藤目宮、天満宮。
飛羅岐神社は、忌部氏が当地を開拓した時に、
餉器を開いたことから名付けられた神社。
御旅所? | 参道入口 |
境内 |
社殿 | 神楽殿 |
本殿 | 拝殿 |
境内左に並ぶ境内社 |
記念碑
粟井神社は 延喜式内名神大社で御祭神は智に優れ政に秀でた天太玉である。
創建年代は詳らかではないが続日本紀に「承和九年(八四二)粟井神名神に預かる」と記され
平安期初頭既に名神に列するほどの名社故に讃岐最古と推測される。また延喜臨時祭式の
名神祭二百八十五座の内に「粟井神社一座讃岐國」とあり粟井神社は当時の讃岐に於て唯一
名神祭に預かる社であった。このように讃岐屈指の格式を誇る当社は古くは刈田大明神とも
称され旧刈田一郡の総氏神として神威は広大であったが世の移ろいと共に次第に盛時の
面影を失い明治十二年(一八七九)縣社に列せられるにとどまった。古記録によると創建時の社殿は今より五丁程南に在ったが大同元年(八〇六)に焼失 寛弘元年(一〇〇四)現在地に遷座したとある また天正六年(一五七八)にも土州軍による 藤目城襲撃の兵火で社殿宝物等を失うが元和六年(一六二〇)讃岐国主生駒正俊によって 本殿が再建されたのである。爾来三百八十年歴代丸亀城主や氏子は懸命に社殿の修復維持に 努めたが近年その老朽損傷は極限に達した。これを憂えた有志は社殿建設奉賛会を発足させ 広く氏子の理解協賛を得て平成の大改築を実現したのである。千木高く新社殿は平成十一年 二月着工以来二年有余を要し同十三年五月竣工したがこの大事業はすべて氏子崇敬者の 奉賛寄進によるものである 茲に 粟井神社の御神徳と氏子k崇敬者の敬神の念を称え 記念の碑を建立し永く伝承するものである −境内記念碑より− 由緒書
御祭神 天太玉命相殿 天照大神 月読命 保食神 由緒 上古、讃岐は西讃を中心として讃岐忌部の氏族が開墾殖民の業に努力した土地であります。従ってこの忌部氏は自分たちの祖神である天太玉命を氏神として齋き祀り、同胞的精神を呼び起こして一致団結をはかりました。忌部氏の精神生活の目標になったものは、西讃の南隅に鎮座まします粟井の御社でありました。 この神社は、古くは刈田大明神とも称え奉り、刈田一郡を以て神供料に当て奉りましたので、郡名を神田郡といったとも言われています。後の豊田郡がそれで如何に御神威の宏大であったかを察することが出来ます。 社伝によれば、忌部氏の天日鷲命より三十一代目の武持の二男久名という人が本社を奉遷したとありますが、年代は上古とのみで詳かではありません。 古くは現在の鎮座地より南方約六百米位の処に祀られていましたが、天火にかかりて今の処に遷座せられたと語り伝えられています。 古記録で明らかなものをたどれば、『延喜式神名帳』に、「讃岐国刈田郡粟井神 名神大。」とあり、『続日本後紀』に「承和九年十一月乙卯 讃岐国粟井神名神に預る。」とあり、讃岐延喜式内二十四社の一社であり、特に神名・大社として崇められました。この神名とは国家の重大事が起きた時、国家の安泰を祈るため国が奉幣して臨時の祭祀を行なうわけですが、この臨時際に預る神のことであります。『延喜臨時祭式』の名神祭二百八十五座の内に、「粟井神社一座 讃岐国」と載せられて、讃岐には事実名神祭に預らせ給いしは粟井神社一社のみであります。 『三代実録』に「貞観六年冬十月十五日戊辰 讃岐国正六位上粟井神 従五位下を授く。」とあり、『讃岐官社考証』に「永徳元年には正三位に昇り給う。」と書かれています。このように、御神徳いや高く万民に尊崇されていたことがよくわかります。 明治十二年に県社に列せられ、明治四十年三月二十二日、神饌幣帛料供進神社に指定せられました。 −『平成祭データ』− |
【 粟井神社 (観音寺市)(印刷用ページ) 】