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天石門別安國玉主天神社
あまのいはとわけやすくたまぬしあまつかみやしろ
高知県高岡郡越知町黒瀬1566
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式内社 土佐國吾川郡 天石門別安國玉主天神社 |
高知市内から西へ向かう194号線をひたすら進む。
道の駅土佐和紙工芸村を過ぎてもまだまだ進む。
仁淀川の東岸を進み、宮ヶ奈呂で、橋を渡って、北へ100m。
行き止まりの場所が境内。なかなか遠いのだ。
仁淀川に面して鎮座し、境内から河原へ降りる道もある。
境内は狭いが、立派な樹木が茂り、異様な雰囲気がある。
あまりに天気が良すぎて、良かったような、残念なような。
式内社調査報告には、「正に神域」と表現されていた。
創祀年代は不詳。
式内社・天石門別安國玉主天神社の論社の一つ。
古来、神谷の社が式内社と伝えられていたが
明治になって当社が式内社であると確定された、
「天岩戸大明神」とも称され、
地元では「戸別様(とわけさま)」と通称されている。
社殿等に神紋は発見できなかったが、百度石に「丸に天文字」。
神紋ではないかもしれない。
境内には、異様に捻じ曲がった巨木がある。
朝焼けに染まる境内に巨木のシルエットを想像した。
神社には、似合う季節や時刻があるのだ。
社頭 |
鳥居 | 社殿 |
境内 |
社号標 | 本殿 | 河に面した境内 |
名称は、天神社を天神宮としたものもある。祭神は天手力男命、
「天岩戸大明神」とも称したと『南路志』に云
う。古来諸説の多くは上掲の神谷の神社を式社と比定して
いるわけだが、『南路志』は『土佐國式社考』に云う秦山
説を否定し、当社を式社とする。恐らく、維新に当って変革
の一端を示したものだろうか。 『南路志』が、当社に比する理由もまた前社のキメテと なった、元禄五年(一六九二)の棟札なのである。 『神社明細書』を見ると、式社を除かれた理由を氏子が 紙面を以て聞いた返事として「『南路志』ニ黒瀬村ハ川上 ニシテ古ヘ洪水ノ節棟札流し神谷村ヘ漂着シタルヲ拾ヒ上 ゲ祭ル云々ヲ趣旨」として云った。氏子惣代は更に改正員 にただすと、「黒川ハ川上ノ浅ニ付、古ヘ洪水ノ時、流レ 来ルヲ拾ヒ上祭ルニ相違有間敷、(中略)若シ此ノ事改メテ 誤リ候時ハ神罰ヲ蒙リ侯テ毛若シカラズ」と答えている。 又「流レ来ルモノニ無之時ハ元緑年中神主高茂壹岐ノ姦術 ヲ以棟札ヲ偽造致シタルニ相違無之」と答えた。当地古領 主勝賀瀬氏が元親に攻められ逃亡の際、杉ノハナの古祀の 背後の岩穴にかくし置いた。又、「黒瀬村の祭神天石門石 別神の合祭大日靈神ニテ祭日ハ九月廿二日ナリ 神谷ノ祭 神ハ天石門別神一柱ニシテ祭日ハ九月十八日ナリ」ともあ る。 明治四年未正月、社寺改正決議書として、右の内容を書 類にして社事係が発表したことにより一応決着した。 −『式内社調査報告』− |
【 天石門別安国玉主天神社 天石門別安國玉主天神社 (黒瀬)(印刷用ページ) 】