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郡瀬神社
ごうせじんじゃ
大分県宇佐市樋田字瀬社187−1
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10号線沿い。駅館川にかかる瀬社橋の西にある。
鳥居扁額には八幡神社とあり、脇の社号標には、郡瀬神社。
瀬社宮とも呼ばれている。
宇佐神宮に関する、辛嶋氏伝承では、八幡神は、欽明天皇の御代、
宇佐郡辛国宇豆高島(稲積山?)に天降り、大和国の膽吹嶺に移り、
紀伊名草海島、吉備神島と渡って、宇佐郡馬城嶺に現われ、
乙咩社、
泉社、
当社瀬社、
鷹居社、
小山田社、現社地へと移ったとする。
社殿の左手に境内社の石祠が三つ並んでいるが、詳細は不明。
『平成祭データ』には末社として祇園社の名が載っているが。
境内 |
社号標 | 本殿(覆殿) | 鳥居扁額 |
境内社 |
郡瀬神社由緒
当郡瀬神社は全国八幡宮の総本社である宇佐神宮の御分霊を奉斎し
た八幡神社であります。抑八幡大神と申し奉るは人皇十五代応神天皇の神霊に坐せり。欽明天皇 の御宇廿九年豊前国宇佐郡宇佐の亀山(一名小椋山)の麓に三歳の小児と顕はれ 坐して、吾れは応神天皇の神霊広幡八幡麿なり」と大神比義翁に諭し、人皇 四十三代元明天皇和銅三年に同郡鷹居山(現東上田)にて復大神比義翁に対いて「吾れ 神と成りて大空を翔れども栖まむ処無し、此を以て御心荒びたり」と諭し給ひしに因り 比義翁は朝廷に奏し、勅定を得、神殿を建て斎き奉る。鷹居、瀬社是れなり。(後 郡瀬神社と称へ奉る)後人皇四十五代聖武天皇神亀二年(七二五)神勅ありて小 椋山即ち亀山に還り鎮まり坐せるなり(現在の宇佐神宮)尚宇佐神宮には行幸会と 申す大事な祭儀があり、その行幸会に当社は深い関係のある由緒正しい神社であ ります。 行幸会と申すは称徳天皇神護元年閏十月十八日の神託によりて四年に一度づつ行 われしが嵯峨天皇弘仁八年より六年に一度と改まり、近古戦乱の世久しく中絶せしを 元和元年細川忠興候再興せらる。其の大略は、下毛郡大貞なる三角池の薦を苅 り、御重を封じ神輿に乗せ奉り、宇佐宮八箇社の内、先づ田笛、次に鷹居、次に 瀬社(当社)に御泊り、次に泉社、次に乙咩に行幸あり、次に大根川へ、此の社より大神 宝を薦社(中津大貞)に奉る。上古は此の社にて勅使参宮あり。同夜復当瀬社に御 泊りせり。翌日妻垣社(安心院)に行幸。此の社より大神宝を辛川社(速見郡) に奉る。翌日小山田社に行幸、同社より亀山の本宮へ御還幸あり。旧き御重は下宮 に遷座し、下宮の旧き御重は国東郡奈多宮に行幸せるなり。 そもそも八幡信仰は単に応神天皇のご聖徳をたたえるものでなく、海外文化や産 業を始めて輸入され新しい国づくりをされた実に英明幸運の方であると共に、神 徳も強くあられたので伊勢につぐ御先祖のお社として崇敬された八幡社であり宇佐 神宮の摂社としてお祀りされたが明治五年郷社に列せらる。 −拝殿内案内より− |
【 郡瀬神社 瀬社(印刷用ページ) 】