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立蔵神社
たちくらじんじゃ
富山県富山市本宮1028  Zenrin Data Com Maps display !!


丸に違い鷹の羽

旧村社

御祭神
保食神

富山県富山市(旧新川郡大山町)にある。
立山の西麓、富山地方鉄道立山線、本宮駅の西200mほどの本宮に鎮座。
常願寺川の南にあり、対岸の常願寺川の北には雄山神社中宮祈願殿がある。

境内は43号線の脇で、入口は東向き。
社号標には「村社立蔵神社」と刻まれており、鳥居扁額にも「立蔵神社」とあるが、
社殿の扁額や境内の案内板には「立蔵社」とある。

鳥居をくぐると正面に社殿。
拝殿の前には三角形に板が設置されていた。雪除けの屋根だろうか。
そういえば、鳥居の扁額には落下防止の金具が付けられていた。
これも雪対策なのだろうか。

拝殿は銅板葺きの入母屋造。後方の小ぶりな本殿は流造だった。

参拝は11月晩秋、曇天の日の日没近い午後。
太陽は西の山に沈む頃で、東向きの当社では逆光になってしまった。

社伝によると、大宝元年(701)、立山開闢の慈興上人(佐伯有頼公)が
五穀成就のため保食神を、字立蔵洞に祀ったのが起源。
和銅七年(714)、佐伯頼本に譲って、地名により立蔵社と称し、
立山の本宮と伝承された古社。

一説には、慈興上人の師にあたる薬勢上人が建立したものとも伝えられ、
立山への道筋として、峯近くの説法ヶ原に鎮座し、
庶民の立山礼拝祭場の本宮として、芦峅寺の中宮(祈願殿)岩峅寺の前立社壇
同格の立山三宮の一つとされていたという。

以後、宮林に遷座。さらに薬勢上人縁の現在地に遷座。
境内案内板によると、当地域は立山開山以前から立山信仰の拠点だったところだそうだ。

境内の左脇に公卿石と呼ばれる石がある。
案内板によると、平安時代、元本宮(粟巣野平)の説法ヶ原には五智寺の大寺が栄え、
多くの僧侶たちはこの大石の周りで、禅問答や碁並べを楽しんだという。
ということは、この石は元の鎮座地から移されたのだろうか。


道路脇に境内

鳥居

落下防止されている扁額

境内社殿

公卿石

社殿扁額

社殿横から

富山市指定文化財
立蔵社神像(二体)

所在地および所有者
富山県富山市本宮一〇二八 立蔵社氏子
種類および特徴
種類/彫刻
指定年月日/昭和五十七年(一九八二)五月四日
特徴/ 身丈九十二センチメートル・一木造り
身丈八十四センチメートル・一木造り
由緒
 立蔵社本殿には八体の御神像が安置されており、内二体は市の指定文化財です。
 一体は身丈九十二センチメートルで立山杉の一木造りです。まげが入る巾子(冠)という部分の幅 が広く、盤領という上衣の円い襟や、なで肩の萎装束(柔らかな衣服)から鎌倉時代初期の作と鑑 定されました。
 もう一体は、立膝で身丈八十四センチメートルの立山杉の一木造りです。この像がいかめしく感 じられるのは、濃い糊を付け折り目を立てた強装束になっており、肩と膝の線が力強く見えるから です。鎌倉時代の作といわれています。
 立蔵社は立山開山の慈興上人(佐伯有若あるいはその嫡男有頼)の師、薬勢上人が建立したもの といわれています。
 祭神は、元は立山の神として祀られたものに間違いないようですが、安永二年(一七七三)に は、伊弉諾尊が祭神だった記録があります。また、明治時代の初めには五穀(米・麦・粟・黍・豆) が実ることを祈願して、食物の神(保食神)をお祀りしたものとの記録もあります。
 立蔵社は、立蔵ヶ原(説法ヶ原)、宮林(上本宮)等を経て現在の地に建立されました。いずれの 地でも立山を望む東向きに建立されたようです。
 出土遺物から、この地域は「立山本宮」といって、立山開山以前から立山信仰の拠点だったところです。

−境内案内−



【 立蔵神社 (富山市本宮)(印刷用ページ) 】

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