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雄山神社 前立社壇
おやまじんじゃ まえだてしゃだん
富山県中新川郡立山町岩峅寺1  Zenrin Data Com Maps display !!


違い鷹の羽

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式内社 越中國新川郡 雄山神社
越中國一宮
旧國幣小社

御祭神
伊弉諾尊 天手力男尊

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富山県立山町にある。
富山地方鉄道不二越上滝線・大山寺駅から東へ
常願寺川を越えると、当社の駐車場がある。
駐車場横に白い大鳥居が立ち、社域の森へ。

同じく岩峅寺駅からは、500mほど西へ。

参道を歩き、山門をくぐると境内。
大きな拝殿の後方に、文化財の本殿が建っているが、
木々が邪魔で、よく見えなかったのが残念。

山門は東西にあり、西側山門が常願寺川へ。
東側山門は岩峅寺駅へ続いている。

境内は広く、清々しい。

創祀年代は不詳。

雄山神社は、立山雄山宮とも称し、
立山を神体とする三社の総称である。
立山山頂に峰本社、芦峅寺に中宮(祈願殿)、岩峅寺に当社大宮(前立社壇)。

立山は、冨士・白山と並ぶ日本三霊山の一つ。
修験道の霊場として知られ、その中心が本社・雄山神社であった。

三社の中心に関して、岩峅の前立社壇と芦峅の中宮の両社僧間で、
争いがおこり、以後、峰本社を中心とする考えにまとまった。

本社は明治までは、岩峅寺と称しており、
大講堂・観音堂・地蔵堂などを備え、二十四軒の宿坊があった。

現在の本社の祭神は、伊邪那岐神天手力男神
伊邪那岐神を立山権現と考え、本地仏は阿弥陀如来。
天手力男神は刀尾権現、本地仏は不動明王
境内にある探湯の釜にも、二尊を示す梵字が刻まれている。

『和漢三才図会』に、立山開山に関して以下のような記述がみえる。
文武天皇大宝元年、帝の夢に阿弥陀が出現し
「佐伯有若を越中の国司にすれば、国家安泰」と告げた。
帝はすぐに、有若に勅命。有若は嫡男・有頼とともに、越中国へ。
ある日、辰巳(東南)の方角から白鷹が飛来し、有若の拳に止まる。
有若は、これを愛育し、有頼は父に請うて鷹遊びへ出かける。
ところが、白鷹が逃げてしまい、探し求めたが見つからない。
そこへ、森尻の権現が示現して、
「辰巳の方角を尋ねるべし」と教える。
辰巳の山奥で、一人の老人に会う。
老人は、「白鷹は、いま横江にいる」と教え、
自分は「刀尾天神」であると告げる。
有頼が、さらに探し求め、奥へ行くと、熊に遭遇。
急いで熊を射ると、熊は逃げ出し、玉戸の窟へ。
有頼が、後を追って窟へ入ると、そこには阿弥陀の仏像が。
仏像の胸には、有頼の矢が刺さっており、血が流れていた。
そこで、阿弥陀は「我は衆生を救済するため汝を待っていた。
鷹は剣山刀尾天神、熊は我である。
はやく出家して当山を開くが良い」


西側入口

西側山門

東側山門

境内

拝殿

本殿

雄山神社前立社壇
 古くは、立山寺と称した。江戸時代に岩倉(峅)寺と 改称し、明治期には雄山神社遥拝所とも呼ばれた。
 本殿は大宝元年(七〇一年)の創建にかかり、建久二年 に源頼朝が再建し、明応元年足利義稙によって修復 されたとしている。富山城主佐々成政の庇護を受け、加賀 藩前田家の所領後は、藩主一族の武運長久、息災延命、 五穀豊穣などを祈る祈願所として、厚く保護された。
 本殿は、和様の斗?組で、五間社流れ造りで、一間大面 とりの向拝を付けて高い階段を覆い下は浜床の様式 をとり、総体は素木造りである。
 昇り階段下の向拝柱の角柱に大斗をのせ、その上 に虹梁を懸げ、木鼻は象形で芭蕉葉図案を手挟に よって屋根に取り付けている。
 また本殿は、大丸柱上に大斗をのせ、柱間には中央 に神紋、双方に日、月、その他の図案彫刻を施こした蟇 股をはめ込んでいる。
 破風の拝下には「いの目懸魚」を懸げ、屋根はもと柿 葺であったが現在檜皮葺である。
 とくに蟇股彫刻や向拝の手挟、木鼻などは、室町 中期の様式を示しているといわれる。明治三十九年四月 十四日付けで特別保護建造物に指定され、文化財保 護法の施行によって、国指定の重要文化財となる。

−境内案内−


御由緒
御祭神
伊邪那岐之神
天之手力男神
伊邪那岐之神ハ天地開闢ノ初祖神ノ詔ヲ奉シテ 修理固成ノ天業ニ就カセ給ヒ皇土郡品ノ祖現世 司命ノ神ニ坐シマス
天之手力男神ハ皇國肇造ニ當リ天ノ岩戸ヲ開キ テ 皇祖ノ御稜威ヲ光被セシメ給ヒ天業翼賛ニ 神功ヲ顕シ給ヘル神ニ坐シマス
抑モ本社ノ鎮座ハ悠遠ニシテ詳カナラスト雖モ 社傳ニ依レハ文武天皇ノ御宇大寶元年越中守佐 伯有頼神教ヲ蒙リテ立山ヲ開キ社殿ヲ創立セリ ト云ヒ傳フ
神階ハ清和天皇貞観五年九月正五位上ヲ宇喜天 皇寛平元年八月従四位下ヲ授ケラレ給ヒ延喜ノ 舊社ニシテ世々領主武将ノ尊崇篤ク多クノ社領 社僧ヲ有シ規模宏大越中随一ノ大社タリ又日本 三霊山ノ一トシテ崇敬者全國ニ洽ク古来越中ニ テハ男子十五歳ニシテ立山ニ登拝セサル者ハ男 子ノ數ニ入ラストノ傳統的信仰有リ夏期登拝ス ルヲ例トセリ
畏クモ 聖上陛下大正十四年新年ノ御歌ニ
立山の空にそびゆるををしさに
ならへとぞ思ふ御代の姿も
ト詠マセ給ヒテヨリ神威彌々四表ニ耀キ給フ
明治六年縣社ニ昭和十五年十一月國幣小社ニ列 セラレ給ヘリ
當社神殿ハ建久年中源頼朝ノ創建ニカカリ其後 足利義稙佐々成政造営セルモノニシテ明治三十 九年四月國寶建造物ニ指定サラル
祭日四月八日
十一月三日
古式大祭
秋 祭

−境内案内−


雄山神社御由緒
 社伝によれば、文武天皇の大宝元年(七〇一年)景行天皇の後裔越中国司佐伯宿禰有若公の嫡男有頼少年が白鷹に導かれ熊を追って岩窟に至り、「我、濁世の衆生を救はんがため此の山に現はる。或は鷹となり、或は熊となり、汝をここに導きしは、この霊山を開かせんがためなり。」という雄山大神の神勅を奉じて開山造営された霊山である。
 古来、富士山・白山と共に日本三霊山として全国各地から信仰されて来た。山頂の峯本社は屹立した巌上にあり、冬期間は雪深く登山することが至難であったので、山麓岩峅(前立社壇)に社殿を建て、年中の諸祭礼を怠りなく奉仕したと伝えられている。尚、芦峅には祈願殿がある。欝蒼たる境内に開山有頼公の御墳墓及び有若を祀る大宮、有頼を祀る若宮等がある。
 当社は、皇室の御崇敬篤く、文武天皇及び後醍醐天皇の勅願所であり、延喜式内の名社でもあり清和天皇貞観五年正五位上に宇多天皇寛平元年に従四位下に昇叙せられたことが、三代実録及び日本紀略に見えている。また、越中一宮と称せられたことがあり、一般国民の信仰も大変篤かったと同時に、旧幕府時代には藩主武門武将の信仰も篤く、建久年間に源頼朝が本殿を再建し、明応元年に足利義直、天正十一年には佐々成政がそれぞれ本殿の改修をしている。明治六年には県社となり、昭和十五年に皇紀二千六百年記念事業として県民あげての奉賛により拝殿以下の建造物が整備され、国幣小社に列せられた。

−『平成祭データ』−

社殿の左手には境内社が3つ。
末社・八幡宮、摂社・刀尾神社、末社・稲荷神社。
また、探湯の釜も境内にある。


境内社

探湯の釜

探湯の釜(くがだちのかま)
 この釜は弘化二年(一八四五)三月加賀の 御殿様・前田斉泰公から寄進された 湯立の釜です
昔はお湯をわかし、お詣りした人々が身にふり かけて、身に罪のない事を神さまに誓った ものです
江戸時代には四月八日の春祭にこの釜で甘釜を わかしました
釜中の文字は阿彌陀如来・不動明王をあら わす梵字です。高岡の金森彦兵衛の作った ものであります

−境内案内−



【 雄山神社前立社壇 】

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