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愛本新 用水天満宮
あいもとしん ようすいてんまんぐう
富山県黒部市宇奈月町愛本新228

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旧村社 |
富山県黒部市にある。
富山地方鉄道愛本駅の北4Kmほどの宇奈月町愛本新に鎮座。
黒部川を渡って北上すると、広大な田畑が広がっているが、
その中央部附近に東向きの境内がある。
境内の裏側にあたる西側に車道があり、車を停めて参拝開始。
参拝は十月後半、雨の日の朝。
傘をさして鳥居のある東側へ回ると「天満宮」と刻まれた社号標が立っている。
当社の正式名は「天満宮」だが、境内の案内板には愛本新用水天満宮とあった。
愛本新に鎮座する、用水完成を祝う天満宮なのだ。
鳥居をくぐると広い境内。
ただし、樹木などはほとんど無く、社殿と燈篭があるだけの簡素な神社。
『富山県神社誌』に載っている写真では、社殿のまわりに樹木が立ち並んでいるのだが、
最近伐採されたのだろう。
赤い屋根の入母屋造の拝殿はガラスで覆われ、後方に流造の本殿がある。
拝殿に中将松と呼ばれた松の木の一部が置かれていた。
前田治修公(参議中将)が愛本新用水開墾を視察した際、
この松の根元で休息されたという富山県史蹟天然記念物だったが、
昭和五十六年一月二十一日、大雪のため倒壊したらしい。
境内に樹木が無いのも大雪のためだろうか。
境内のあちこちに伐採された切株が点在していた。
往古、舟見野一帯は水が無く荒れ果てた土地で離散する人々も多かった。
寛政年間、時の十村(十村を管理する庄屋、加賀藩独自の制度)であった伊東彦四郎祐寿は
この惨状を救うには黒部川より一大用水を通ずるしかないと考え、
加賀藩十一代藩主であった前田治修公に願い出たが、藩の貧困のため許可されなかったが、
その後も再三請願を続ける彦四郎の熱意に感動した前田治修公は
藩政を節約して十五万両を与え用水工事を命じられた。
寛政十年(1798)工事着工から五年の歳月を費やして
享和二年(一八〇二)の冬十一月六日に延長三里(12Km)の用水が完成。
用水は荒野を五七七町余(約39670アール)の美田と化した。
住民は前田治修公の美挙に感激し、一社を建立して前田治修公を生きながらに祀り、
天満宮と称して、産土神とするとともに用水の守護神として崇敬したという。
用水が完成し、初の通水の時、村民は手に手に松明をかざして水を待ち、
流れる水と共に走って喜び合ったという。
当時の姿は松明祭として現在に伝えられ、
長さ八メートル、重さ四五〇キロの大タイマツ二基が若衆らによって担ぎあげられ、
子供たちは手に手に小さな松明を百二十本持って用水沿いに下る。
このページを作成している今気付いたが、肝心の用水の写真を撮り忘れてしまった。
拝殿扁額や社殿の屋根に梅鉢紋。天満宮の代表神紋だ。
社頭 |
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鳥居 ![]() | 境内 ![]() |
境内 |
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本殿 ![]() | 拝殿 ![]() |
中将松 ![]() | 拝殿扁額 ![]() |
黒部市無形民俗文化財
寛政年間には用水辺の雲雀野一帯は水がなく、 まったくの荒野で村民が困りはてていたのを、当時 朝日町泊の十村役人であった伊東彦四郎氏が、加賀 藩十一代藩主前田治修公に建言して用水をつくるこ ととし、寛政十年(一七九八)に着工した。難工事 に悩まされながら五年の歳月を費して、享和二年 (一八〇二)十一月六日、三里に及ぶ用水を完成し、 念願の水が通り、約四百町歩が美田化された。喜ん だ村民は手に手にタイマツをかざし、水の流れを 追って貫通を祝った。 それ以来毎年用水完成日にタイマツ祭りを催し 治修公の遺徳をしのぶならわしとなった。この日は 長さ8米、重さ四五〇キロという大タイマツ二基を 村の若衆二十余名によってかつぎ、ほかに子供たち が小タイマツ約二百本をもち夜空を輝かせながら 用水ぞいに下る終夜火の祭典がくり広げられた。 −境内案内板より− |
