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福井神社
ふくいじんじゃ
福井県福井市大手3−16−1  Zenrin Data Com Maps display !!


十六八重菊に葵

旧別格官幣社

御祭神
松平慶永(春嶽公)

福井県福井市にある。
福井城跡にある県庁の御堀の西側。
福井駅から北西に500mほどの場所に東向きに鎮座。

中央公園と御堀に挟まれた道を北上すると、
境内入口の鳥居が立ち、背後に大イチョウ。
鳥居側には、創建時に建立された社号標が移築されている。

境内に入ると左手に、コンクリート製で横に広い大鳥居。
境内奥に、近代建築らしき拝殿が立つ。
当社は、昭和20年の戦火に焼失したが、
昭和32年、福井大学工学部の設計により再建されたもの。

時代のせいか、ほとんどがコンクリートの打ちっ放し。
冬の境内は、寒々としており、
参拝当初、どこに社殿があるのだろう、と探してしまったほど。
かつては総檜造りだったらしいのだが・・・。

境内の案内には、本殿は神明造と説明があった。
確かに、屋根は前後均等なのだが、傾斜の無いフラットな屋根。
拝殿も摂社も同じようにフラットな屋根。
都会の片隅にある倉庫のような、無機質な社殿が、
当時としては、斬新だったかもしれないが、
僕は寂寥感すら感じてしまった。

きっと、若葉の頃には境内も青々と茂った木々によって
美しくなるのだろう。きっと。

当社の創建は、昭和18年。
最後の別格官幣社として、幕末の福井藩主・松平春嶽公を祀る。

春嶽公は、福井藩主として幕末に偉勲のあった人物。
(らしい。よく知らないのだ、残念)
「幕末の四賢候」の一人。
ちなみに、他の3人は、薩摩の島津斉彬、宇和島の伊達宗城、土佐の山内豊信。

拝殿の左手には、椅子に腰掛けた春嶽公の像。

境内左手に北向きの摂社は、恒道神社。
祭神として、幕末の福井藩士、中根雪江・鈴木主税・橋本左内を祀る。


大鳥居

境内

摂社・恒道神社

拝殿

本殿

本殿

福井神社
 当福井神社は昭和十八年我国最終の別格官幣社として創建さ れたもので 幕末の明君の名を謳われた福井藩主松平春岳を奉 祀してある 幕末に際し時代の動向を明察して維新回天の事業 に参画し偉勲をたてた諸侯は少なくないが それらの多くは薩 長土肥をはじめ所謂外様の諸藩であって 春岳の如く 親藩の 雄鎮として宗家徳川に対する情誼を貫きながら 一面大義の確 立に当ってはよく其の去就を誤ることなく 全藩一糸乱れざる 統制のもとに数々の偉功を挙げた藩主は殆んどない かつ当時 の福井藩には明君春岳のもと中根雪江 鈴木主税 橋本左内  由利公正 笠原良策などをはじめ俊秀踵を接して出で 直接臣 僚ではないが 有名な橘曙覧の如き歌人もその治下に現われて 絢爛たる人傑福井を現出した 幕末維新の当時こそは わが福 井の歴史に於て最も光輝を放った時期といってよい この意味 に於て当社は又当時のわが郷土福井を表象する好個の記念堂と もいうべきである なお攝社恒道神社は前記中根 鈴木 橋本 の三臣を奉祀してある
 当社は創建後いくばくもなく昭和二十年七月十九日の戦災に よって総檜造りの壮麗な社殿をはじめ全域烏有に帰し 久しく 荒廃したままであったが 市街も次第に復興して当社再建の機 運が熟したので 福井大学工学部の設計に基づく新時代にふさ わしい独創の建築様式を採り上げて 工を進め
   昭和三十二年 神殿 拝殿 攝社
   同 三十三年 大鳥居
   同 三十五年 宝物殿
   同 四十 年 絵馬堂
   同 四十一年 社務所
を逐次建立して ここに全建物の完工をみるに到った よって この機会に当社の由来を謹書して奉納する次第である

−絵馬堂由緒より−



【 福井神社 】

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