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井波八幡宮
いなみはちまんぐう
富山県南砺市松島3057

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式内社 越中國礪波郡 荊波神社 |
富山県南砺市(旧井波町)にある。
南砺市役所井波庁舎の南、直線で500mほどの松島にある井波城跡に鎮座。
戦国時代の城塞都市のような雰囲気の町の中に境内がある。
境内入口は北西向き。
参拝は晩秋10月後半の朝。
昇る朝日に向って緩やかに上る参道を歩くと逆光の鳥居。
鳥居の右手に手水舎があり、参道正面、境内の南東隅に当社の社殿。
拝殿は銅板葺入母屋造。後方の本殿は木々で良く見えなかったが瓦葺流造のようだ。
ひょっとすると見えているのは覆屋で、中に祠があるのかもしれない。
境内は広く、境内左手には綽如上人瑞泉寺創立之霊跡、霊水・臼浪水がある。
南北朝の頃、本願寺五世綽如上人が建立した瑞泉寺の古跡で、
綽如上人が「此地に霊水あり、故に瑞泉寺と称す」と記したという。
現在、瑞泉寺は当社の西側にある。
当社の正式名は「八幡宮」だが、他の八幡宮と区別して、
鎮座地名を冠して井波八幡宮と通称されている。
上記のように、当社境内は瑞泉寺の古跡。
瑞泉寺は一向一揆の拠点となり、寺の周囲に土塁や外堀を築いて
利波城(又は井波城)と称されていたが、
天正九年(1581)に武将の佐々成政に攻められて町家とともに兵火にかかった。
その後、成政の家臣前野小兵衛が入って城として整備され、
瑞泉寺阿弥陀堂跡が本丸、祖師堂跡が二ノ丸、太鼓堂跡が三ノ丸になったが、
数年後の天正十三年には前田利家に攻められて落城した。
正保二年(1645)、近郷四十八カ村の惣社であった谷鎮座の大森神社を
井波八幡宮として東井波に奉遷の総意となり、現在地、古城本丸西土居の上に遷座。
明暦三年(1657)には西土居を切抜いて道がひらかれ、
その後、嘉永五年(1852)に本殿、翌六年に拝殿が造営された。
井波八幡宮の元社である谷鎮座の大森神社は式内社・荊波神社の論社。
明治六年村社に列し、明治十八年郷社に昇格した。
社殿の右手、覆屋の中に蚕堂(養蚕社)が祀られている。
井波町は江戸時代、蚕種業で発展した町で、文久元年(1861)に創祀された。
社殿左手には神明宮。瑞泉寺時代、当地に神明宮が祀られていたらしいが、
その後継社だろうか。
現在の当社社殿は井波城本丸跡にあるが、二ノ丸跡には昭和十三年創祀の招魂社が鎮座。
当社賽銭箱に十六菊があり、招魂社境内にある神馬像にも菊紋が付けられていた。
菊紋が当社の神紋かどうか未確認だが、とりあえず掲載しておく。
参道 |
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鳥居 ![]() | 手水舎 ![]() |
境内 |
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拝殿 ![]() | 扁額 ![]() |
社殿 |
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神明宮 ![]() | 蚕堂(養蚕社) ![]() |
臼浪水入口 ![]() | 臼浪水佛堂 ![]() |
臼浪水 |
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招魂社 ![]() | 招魂社 ![]() |
招魂社境内の神武像 |
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大森神社井波八幡宮誌
我々の崇敬する氏神、大森神社、井波八幡宮の由緒を古文書に依るに、異書が多く、しかも年次の相違が目立つのである。これを調整すると次のようになるのではないだろうか。創建の年次は不詳であるが、往古、八乙女の山頂に近く、方俗が神陵と崇めた双陵(荊塚とも云い、また古く鳥居が並び立っていたとかで二有鳥居塚、後の人誤って二羽鳥塚、遂には今に伝わる鶏塚)に向って正面、山斐郷西井波の地内、谷の大森に鎮座あったもので、社殿に式内荊波神社としてあるが確証はない。私には恐らく当時の山霊信仰の典型的な社の一社ではなかったかと思われてならない。又、大森神社と称したのも、その頃の谷の社地は大樹鬱蒼として、古語辞典の大森とは神のいます森というに相応しく、自然に土地の人々、大森社と唱い、終に固有名詞の社名となったと古文書にも説かれている。 また伝承によれば、天正年間、当地には七日七夜の大驟雨があり、前述の神陵が崩れて、神代文字を鑿した石鏡と石槌柄が出土したとの記録があり、この出土の二品は現在も神庫に秘蔵されていると聞く。又、この神代文字は明治二十一年十一月東京府大学教授・落合直澄氏によって鑑定されているとも聞いている。 その後、山麓に栄えた天台宗の中心、止観寺の本尊、伝泰澄大師作の薬師如来が薬師大明神として合祀されていたとの伝承もある。 これが、明徳四年(一三九三年)頃、山城国綴喜郡男山八幡を勧請し奉って、本殿を建築してより、八幡宮と称したと口碑は伝えている。 一方、現在の井波八幡宮の境内は、往古、綽如上人が瑞泉寺創建の旧蹟の中で、瑞泉寺三代蓮乗公隆盛の文明年間に、東西百間、南北百二十間の周囲に塁濠を遶らせ、城廓を築かれた利波城(又は井波城)趾と録されているが、元亀元年(一五七〇年)この西土居下に松村又兵衛栄伸によって、初めて神明宮が建立されたとの伝えもある。 その後、一向一揆の争乱が次第に激しくなり天正九年(一五八一年)に佐々成政が瑞泉寺を焼撃、戦は幾度におよんだが遂に瑞泉寺側が敗退して成政は隷属の前野小兵衛にこの城を守らせた。しかし幾何なくも成政も豊臣氏に降服して、城地は前田氏の封内に入ったのである。 戦塵治まった文禄二年(一五九三年)には瑞泉寺も旧地に復し、慶長元年(一五九六年)には伽藍を現在の地に移したので、住民も次々と復帰したと記録せられている。 正保二年(一六四五年)に至って、近郷四十八カ村の惣社として崇敬厚い谷の大森神社を井波八幡宮として東井波に奉遷の総意となり、現在の地、古城本丸西土居の上に、表参道を城の大手桝形より臼浪水の前を通る東向きに鎮座し奉ったのである。尚、大城寺(綿貫家)もこの時に供奉せられたとの記録も存している。 明暦三年(一六五七年)には西土居を切抜いて道がひらかれ、正徳二年(一七一二年)に前述の神明宮が現在地へ、糸屋吉兵衛によって移された。 又、年代は不詳であるが、嘗て城の守護神として城の東方、大谷河原に鎮座の諏訪大明神も合祀されたとの記録もある。 其の後、氏子の熱意が結集して嘉永五年(一八五二年)には本殿、翌六年には拝殿が棟梁・南部栄輔によって造営、落成したのである。 尚、末社として金比羅社(金山彦之神)が三清村茂兵衛によって、旧八幡宮鎮座の跡に建てられ、養蚕社(食持社)も文久元年(一八六一年)伏見稲荷を勧請して建立、外に古城大手の大杉脇に鎮座の大杉天満宮は、嘉永五年(一八五二年)に金比羅社の右側土居下に移されたが明治十八年には復遷、社殿荒廃のため再度、本殿へ合祀になった。以上が現在地での八幡宮草創以来の概況である。 その後、安政三年(一八五六年)九月、藩主前田斉泰、本郡を巡視の際には、八幡宮に参拝せられ、神宝を熟覧、幣物を捧げられたとある。 降って明治十八年(一八八五年)十二月二十一日には、氏子待望の郷社に昇格した。 明治二十四年には大阪より伏木港に廻航、庄川弁財天前まで艀二艘で遡航した鳥居石材が橇で石引きされ、明治二十七年にようやく、現在の大鳥居の組立建が大阪の石工に依って完成したと伝えられている。 昭和四年には参道が竣工。 昭和八年には神輿堂を現在地に移転、神輿堂旧地には社務所、また御輿三社の塗箔改修もこの年であった。 その後、昭和十七年七月には本殿、祝詞殿、幣殿の改修がなされ、昭和四十五年には銅板葺が行われて十二月六日、竣工祝賀祭が施行されている。 −『平成祭データ』− 市指定文化財 井波城址(瑞泉寺旧地)
昭和三十年七月指定
周囲を土塁が囲み 北東側に深い谷が残
る戦国末期の典型的な平山城である一向一揆の拠点になった瑞泉寺は 寺の 周囲に土塁や外堀を築いて防御した しかし 天正九年(一五八一)に武将の 佐々成政に攻められて町家とともに兵火に かかった その後 成政の家臣前野小兵衛が入って城 として整備された 阿弥陀堂跡が本丸となり 祖師堂跡が二ノ 丸 太鼓堂跡が三ノ丸になったと記録にある まもなく 天正十三年には前田利家に攻め られて落城した 城の規模は 東西二五〇メートル 南北二三 〇メートルで城としての遺構がいまよく残 っている 現在の本丸跡に井波八幡宮の社殿 その東側 に庭園のある臼浪水 そして二ノ丸跡に招魂社 の社殿がある −境内案内− |
