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宮津八幡宮
みやづはちまんぐう
富山県魚津市宮津1520

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富山県魚津市にある。
魚津駅の南4Kmほどの宮津に鎮座。
角川に沿って33号線を南下し、宮津で東側、集落の奥に入った場所。
北陸自動車道の有磯海SA(下り線側)の近くに境内がある。
当社に到着したのは日の出前で真っ暗だったので有磯海SAでしばし休息。
有磯海SAの脇に駐車場があり、SA内に車は入れないけど外からも利用できる。
車の中で仮眠し、少し明るくなった頃に境内に戻ったが、
雨と風が激しくなって、雨に濡れながら参拝。
写真では明るく見えるけど、まだ外灯が灯っている時刻。
境内入口の鳥居の脇には「村社 八幡宮」と刻まれた社号標。
鳥居をくぐると砂利の境内で、境内を囲う垣などは無く
オープンな雰囲気の神社。
拝殿は瓦葺入母屋造。拝殿の扉は黒色で、
瓦も雨に濡れて良い感じに黒光りして美しい。
拝殿の扁額には「加積郷總社 正八幡宮」とあるが、
当社の正式名は、社号標にあった「八幡宮」のようだ。
宮津に鎮座しているので、通称が宮津八幡宮。
創祀年代は不詳。
往古より、新川郡加積郷の総社として崇敬された古社。
現在の魚津市、滑川市、上市町の一部を含む加積郷の守護神・加積神を祀り、
「三代実録」に清和天皇貞観十五年(873)十二月、
従五位下を叙されたと記されている、国史見在社である式外社。
鎌倉時代以降、武門、武将、特に松倉城主、魚津城主の崇敬篤く、
八幡信仰の隆盛によって、八幡宮となり、
明治以降は「加積郷總社 正八幡宮」と称するようになった。
戦後、宮津八幡宮と一般に呼ばれるようになり、
昭和三年、宮津神明宮を合祀。
昭和三十九年、鎮座千百年祭を執行した。
拝殿の黒扉や賽銭箱に、笹龍胆の紋が付けられていた。
通常、八幡宮では巴紋や鳩紋が神紋として使用されるが、
江戸時代、龍胆紋も源氏の家紋として考えられるようになったらしい。
その影響だろうか。
拝殿の右手に、チャンチャン石という石がある。
隕石と伝えられている石で、小石で叩くと「チャーンチャーン」と音がする。
願い事をして石を叩くと、石の中から答えてくれるらしい。
その脇には、バン持ち石。力石とも呼ばれる石だ。
鳥居 ![]() | 境内 ![]() |
社殿 ![]() | 拝殿扁額 ![]() |
社殿 |
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拝殿 ![]() | 本殿は見えず ![]() |
チャンチャン石 ![]() | バン持ち石 ![]() |
宮津八幡宮のいわれ
当社は往古より、新川郡加積郷の総社として知
られ、現在の魚津市をはじめ、滑川市、上市町の
一部を含む加積郷の守護神を祀る。御祭神は誉田別尊(応神天皇)を主神とし、例 大祭は九月十五日である。 歴史的記録としては「三代実録」(平安時代撰) に「清和天皇貞観十五年(八七三)十二月丙午、 加積神ヲ従五位下ニ叙ス」とあり、勅使をもっ て御勧請になった県内有数の由緒を持つ古社 である。鎌倉時代以降には、武門、武将、特に、 松倉城主、魚津城主の崇敬篤く、奉納された 刀剣類は、社宝として現存する。 また、近くには、刀工、郷 義弘(正宗十哲の一人) の遺跡と伝える鍛冶屋敷なる地名がある。 なお、檜つくりの加積神像(鎌倉時代)、仁孝 天皇御璽印の任官状(江戸時代)、金屋町在住の 藤原汎隆作脇差(江戸時代)は、魚津市の重要 なる文化財である。 この、郷開拓民の昔から鎮護国家と五穀豊穣 の御神徳を崇め奉ってきた八幡大神は、現代では 郷土全体の幸福と、繁栄ををお護りになる氏神と して、更には世界平和と、人類の文化と、産業の 発展の御守護を仰いでいる。 −境内案内− |
