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日枝神社
ひえじんじゃ
富山県富山市山王町4−12  Zenrin Data Com Maps display !!


山桜


十四弁菊花

旧県社

日枝神社公式サイトを開く

御祭神
大山咋神 大己貴神
合祀 天照大御神 豊受大御神

富山県富山市にある。
富山駅の2Kmほど南の山王町に鎮座。
41号線と市電の走っている43号線の間に境内がある。

市街地の神社なので、徒歩ならばどの方角からでも境内に入れるが
車の場合は、境内北側に駐車場がある。
ただし、境内北の道は一方通行のようで、ちょっと迷った。

参道入口は北向き。
参拝はお昼頃だったため、太陽に向かって進む。
石鳥居の脇に社号標があり「神社本廰別表神社 日枝神社」と刻まれている。
鳥居をくぐり参道を進むと突き当たりに手水舎。
手水舎から左手奥に進むと、境内社の麄香(あらか)神社。
右手に進むと社殿のある境内で、正面に大きな拝殿がある。
ということで、当社社殿は東向き。

さすがに大きな神社で、
拝殿には鈴緒(参拝用の鈴の縄)が七本ぶら下がっていた。
朱の拝殿はコンクリートで銅板葺入母屋造。正面に唐破風が付いている。
残念ながら本殿は確認できなかったが資料によると流造らしい。

参拝は十月後半の晴天の正午頃。
拝殿の前に初宮詣らしき家族がいて、交互に写真を撮ったり
ビデオカメラを回していたので、映らないように木陰に佇んでしばらく待つ。
待っている間に、次に参拝予定の神社の資料を読んだり
道順を確認してりして、御朱印をいただくのを忘れた。

創祀年代は不詳。
山王さんとも称される、富山県の県社。

往古は新川郡針原郷大野に鎮座していたが
建武二年 (1335)南北朝の戦乱のおり焼失し、新川郡大山隠土にのがれ、
後、延元元年(1336)上新川郡中野村(古宮)に遷座。
応安二年(1369)桃井直常の反乱があり、
婦負郡藤居村(今の富山城址附近)に遷座した。

天正八年(1580)佐々成政が富山城主となり
当社を深く崇敬し、山王町に遷座。

天正十五年(1587)前田利長が富山城主となって以後、
社地を寄進し、社殿を造営。富山城下の産土神として
毎年四月二十二日を以て例祭日とし祭祀を厳修したが、
天保二年(1831)火災により悉くを焼失した。

明治六年郷社に列し、明治八年北神明(天照大御神)・南神明(豊受大御神)を合祀。
明治三十二年県社に昇格し、富山城址に遷座したが富山市大火により焼失。
明治四十三年現社地に社殿を造営して遷座。
昭和二十年戦災を受け社殿を悉く消失したが復興された。

社殿には桜紋が付けられており、
資料にも当社の神紋は山桜だと記されている。
ただし、拝殿前の神馬像には珍しい十四弁の菊花紋が付けられていた。
菊紋は当社の神紋ではないのかもしれないが、珍しいので載せておく。

手水舎の左(東)にある麄香神社(手置帆負神彦狹知神)は、
富山藩江戸屋敷に祀られていたもの。
後に北神明社に祀られていたが、北神明社を本社に合祀したため、
当社境内に奉遷した。

拝殿の左手に三末社が祀られており、
左から春日社(天兒屋根命)、稲荷社(倉稻魂命)、水天宮(安徳天皇)。
三末社の前には、安産祈願の犬の像が置かれている。

参拝中は知らなかったのだが、
日枝神社公式サイトによると境内に弁慶石という石があるらしい。
源義経の奥州落ちの途次、弁慶がこの石を転がして義経の腰かけにしたという。
知らなかったので写真を撮っていなかったが
手水舎の後に辛うじて写っていたので恥ずかしながら載せておく。


社頭

鳥居

社号標

参道

手水舎

麄香神社

弁慶石

境内社殿

拝殿

拝殿内

三末社

安産祈願の犬の像

日枝神社
 山王さんの名で富山市民に親しまれる富山市一番 の大社で、市内の中心部五十三ヶ町が氏子である。
 佐々氏、前田氏と歴代の城主も深く崇敬し、富山 城下の産土神としてきた。
 もとは、新川郡針原郷大野にあったが、建武二年 (一三三五)戦で焼かれ、大山町隠土に避がれ、そ の後中野村古宮へ、貞治六年(一三六七)以後婦負 郡藤居村(今の富山城址附近)に、遷したと伝える。
 佐々成政が城の守り神として祀ったが、のちの 加賀二代藩主前田利長から現在の社地を寄進され ここに移った。
 祭神は大山咋神、大己貴神で旧藩以来、藩を以 って祀られていた北の神明の天照大神、中の神明の 豊受大神を明治の廃藩後相殿として共に祀る。
 境内には成政が大切にしていた弁慶石という庭石 がある。
 六月一日二日の大祭は山王祭りとして全国に知ら れ、約千軒の露店が立ち並び賑わいをみせる。

−参道案内板−



日枝神社御由緒
旧記文献等の散逸消失により詳しくは知り得ないが、現在の記録によると最も早い年号は建武二年(一三三五)で、その頃の記録によると、当神社は、越中国新川郡針原大野に鎮座、広大な社殿・社地を備えていた。その後、戦乱を避けて御神体を奉じて、上新川郡大山隠土、上新川郡中野村(現在の古宮)、婦負郡藤居村(現在の富山城址)と御遷座された。
天正八年越中国守佐々成政は、崇敬殊に篤く毎年四月の中の申の日を以て神事を執行した。天正十三年前田利長が富山城に入城し、時の神主平尾宗円は神事を執行、神札を差し出したところ大いに喜ばれ、以後富山前田家の産土社とせられ、新たに社地を寄進し、本殿・拝殿・鳥居刀造営せしめ、同十六年四月一日遷座祭を斎行、毎年四月二十二日を例祭とし祭典料しとて正米十石供進のことが定められ、さらに神輿を寄進された。なお、神輿渡御の供奉として榊神馬二頭、長柄槍十筋並びにお固め足軽等を附せられるとの恒例が定められた。なおまた、例祭には、当神社が鬼戸山に難をさけられた縁故により湯立釜の火焚きとして隠戸から二人を召され青銅壱貫を与えられた。永応二年二代藩主正甫公は、社殿の造替えを命じられ、同五年漸く完成し遷座祭が斎行され、神輿二基も寄進された。以後代々の藩主の崇敬篤く種々寄進のものがあったが、天保二年の火災に罹り悉く消失した。明治六年八月郷社に列し、氏子区域が定められ、その町数五十町・戸数五千二百余戸であった。明治八年九月天照大御神を奉斎の北神明社、並びに豊受大御神を奉斎の中神明社を当社相殿として合祀した。明治三十二年当神社境内に新県庁建設と旧富山城跡の公園化計画に際し、当神社が応安の昔、同地に鎮座せられた縁故をもって御奉遷され八月二日県社に昇格された。ところが、八月十二日市内全域大火(俗に熊安焼けという)にあい炎上、御神体の御安泰を得たほかは全く灰燼したため、同三十四年本殿・拝殿を現在の山王町に御復座された。昭和二十年八月一日戦災により全社殿その他建物の全てを消失したが、御神体は、本殿土壇の特設の防空壕に直前にお移しして被災を免れた。戦後は被災にあった本殿・拝殿・社務所等が氏子崇敬者の御浄財により次々とご復興され、神域は見違えるように旧に勝る威容を誇るに至った。なお、昭和四十三年には神社本廳の別表神社に加列された。

−平成祭データ−



【 日枝神社 (富山市) 】

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