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久麻加夫都阿良加志比古神社
くまかぶとあらかしひこじんじゃ
石川県七尾市中島町宮前ホ−64
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式内社 能登國羽咋郡 久麻加夫都阿良加志比古神社 |
石川県七尾市にある。
のと鉄道・能登中島駅の北西3Kmほどの中島町宮前に鎮座。
熊木川の沿って23号線を進むと、
能登有料道路の横田I.C.の南に、
道路に面して南向き(やや南東向きか)の境内。
入口の鳥居は、基本的には石の両部鳥居だが、
笠木の上に、さらに笠木がある、いわゆる越前鳥居。
その鳥居の脇には「久麻加夫都阿良加志比古神社」と刻まれた社号標。
鳥居をくぐると、正面に大きな社殿。
拝殿は瓦葺入母屋造で、後方に本殿の覆屋が付属している。
境内は広く、大きな御神木がある。
『日本の神々』には、社前に八百比丘尼が飢えた大杉があると
記されているが、この杉だろうか。
境内社には大きな薬師社があるが、
境内の奥に参道が続き、加茂社が鎮座。
正確には、薬師社は境内末社だが、加茂社は境外社として別の神社。
当社には、境外末社が19社あるらしいが、その中の一社なのだろう。
創祀年代は不詳。
俗に熊甲宮、通称は、お熊甲とも称する神社。
本地仏は薬師如来だったらしいので、
境内社・薬師社は、ようするに本社の分身なのだろう。
初め、祭神は西岸村瀬嵐に漂着され、
後に熊木村上町高瀬の森に鎮座し、さらに現在地に遷座したという。
式内社・久麻加夫都阿良加志比古神社に比定されている古社。
祭神は、阿良加志比古神と都努加阿羅斯止神。
一説には、阿良加志=阿羅斯止とされ、同一神とも。
また、熊木郷(熊来郷)の総社だが
熊木は高麗来、つまり高麗から渡来した神。
あるいは高麗甲を被った、阿良加志比古神というのが社号の起こりだとも。
前田氏の崇敬が篤かった神社で、明治六年郷社に列した。
当社の例祭は、前夜祭と慶賀祭を合わせた『熊甲祭』。
枠旗祭とも呼ばれ、重要無形民俗文化財になっている。
神輿二十台が渡御するもので、境外の各末社十九社から練り歩いてくるらしい。
『熊甲祭』に神輿の渡御がある境外末社は以下の19社。
中島・白山社、深浦・白山社、長浦・加茂社、浜田・八幡社、谷内・白山社、
小牧・白山社、中島・熊野社、横見・八幡社、別所・白山社、瀬嵐・人麿社、
山戸田・本宮社、上町・市姫社、中島・菅原神社、中島・愛宕社、横田・八幡社、
外・加茂社、田岸・菅原神社、宮前・加茂社、外原・神明社。
この中の宮前・加茂社が、境内奥の加茂社だと思う。
時間があれば、19社すべてを回ってみたかったが、
他にも予定があり、回っていないのだ。
境内入口 | 境内 |
社殿 |
本殿覆屋 | 加茂社参道 | 薬師社と御神木 |
加茂社 | 薬師社 |
国指定重要無形民俗文化財「枠旗祭」
古代、中世以来熊来郷(荘)の総社として近郷の人々から
尊崇され、一般的には『おくまかぶと』の称で親しまれて
きた式内社である。祭神の一柱は意富加羅国の王子で万
葉集に集録されている当地の民謡『新羅斧の歌』と共に、
古代朝鮮半島との深い交流をしのばせる座像で、
昭和25年国の重要文化財に指定されている。この神社の秋の大祭『お熊甲祭』は数多い能登の奇祭の中 でもきわだっており、毎年9月20日に行われることか ら『二十日祭』とよばれ、各集落(19末社)からくり出し た鉦・太鼓・猿田彦を従えた祭礼の行列が本社へ集合し て祭典が行われる。高さ20メートルもある真紅の大枠 旗20数旗と、金色に輝く20基の神輿を若衆が喚声を あげ勢いよく担ぎ、さしあげを繰り返す。見せ場は、各 集落が本社へ参入する時や、猿田彦が乱舞する『奉幣式』 加茂原での練り回りなどである。熊甲祭の枠旗行事は、 昭和56年国の重要無形民俗文化財に指定されている。 −社前案内板− 久麻加夫都阿良加志比古神社の由緒 当社は久麻加夫都阿良加志比古(くまかぶとあらかしひこ)神社、一般的には『おくまかぶと』の称で親しまれ古来より氏子・崇敬者らに親しまれております。 御祭神は、久麻加夫都阿良加志比古(くまかぶとあらかしひこの)神・都奴加阿良斯止(つぬがあらしとの)神の二柱の神をお祀りしてあります。 この神々は韓国の王族で阿良加志比古神については地神とも、三〜四世紀頃の南朝鮮の阿羅(あら)国の王族とも言われており、その後、現在の鎮座地方を平定され守護神としてお祀りしてあります。 都奴加阿良斯止神についても『日本書紀』の「垂仁紀」二年条の分註に、『御間城天皇之世、額有角人、乗一船、泊于越国笥飯浦。故号其処曰角鹿也。問之曰、何国人也。対曰、意富加羅国王之子、名都怒我阿羅斯等。』の記事があり、四〜六世紀頃、朝鮮の南の方に栄えていた国の王子で、現在の敦賀に上陸、渡来したと記されております。 毎年九月二十日に行われます例祭は一名を『二十日祭り』とも言い、昭和五十六年に国の重要無形民俗文化財に指定されました。 祭りは二十日のお旅所である加茂原までの渡御の順番を決めるクジ引きをする六日の「しらい」から始まり、十九日夕刻からの「奉幣迎え」、翌二十日早朝から氏子十九の末社が本社に集まり境内へと「参入」する、定刻十時三十分に社務所から宮司、献幣使、神職、氏子総代が出発し「奉幣式」を行い、五穀豊穣・万国平安を祈念する「祭典」を始めます。 高さ二十m余りの真紅の大枠旗三十数基と金色に輝く二十基の神輿。 華やかな色彩の鳥兜をかぶり、狩衣を着け、面棒を持った猿田彦の乱舞や鉦・太鼓のリズムは華麗にして荘厳な中にも地方色極めて豊かな情趣をかもし出す美観は全国にも稀に見る祭礼であります。 摂社の『薬師社』には藤原時代の作とされ作が極めて優秀であることから県の有形文化財に指定された「熊甲薬師如来座像(くまかぶとやくしにょらいざぞう)」が安置されており神仏混淆の名残をとどめています。 境内にある校倉造りの『宝物殿』には弘法大師が能州遊行の砌、当社に寄進されたと伝えられる「紺紙金泥法華経(こんしこんでいほけきょう)」が納められていました。 −『平成祭データ』− |