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氣比神宮
けひじんぐう
福井県敦賀市曙町11−68
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式内社 越前國敦賀郡 氣比神社七座 並名神大 |
福井県敦賀市にある。
敦賀駅の北1Kmほど。8号線に面して朱の大鳥居がある。
この大鳥居は、国の重要文化財だそうだ。
敦賀湾の最奥部。京都から北上して、日本海へ向う道の終着点。
当地から、東へ向えば越中・越後、西へ向えば丹後。
また、大陸への表玄関として、
交通の要衝に位置する重要な場所に鎮座。
西に面した大鳥居を東へ進むと、左手に猿田彦神社。
その先に、垣に囲まれた境内がある。
境内入口の中鳥居も朱の鳥居で、これは南向き。
境内に入ると、正面に、これも南向きの社殿がある。
社殿の左手に、境内社(九ノ宮)を集めた場所。
本殿の四隅には、よく見えないが、4つの祠(四ノ宮)。
垣の東側は駐車場になっており、小学校と接する場所に、土公。
その正面近くには、大神下前社・兒ノ宮・角鹿社の三社が並んでいる。
笥飯(けひ)の宮、笥飯大神とも呼ばれた神社。
主祭神・氣比大神は、別名・伊奢沙別命といい、
また、御食津大神とも言われている。
『古事記』仲哀記には、以下の記述がある。
建内宿禰命が、太子(誉田別命、後の応神天皇)を連れて、禊に訪れた時。
当地に坐した伊奢沙和気大神が、夜の夢に出現し、
「吾が名を御子の御名に易へまく欲し」と告げた。
さらに、「明日の旦、浜に幸すべし。名を易へし幣献らむ」。
翌朝、浜へ行くと、鼻の傷ついたイルカが浦いっぱいに集っていた。
これを見て太子は、「我に御食の魚を給ひき」、
つまり、神が太子のために、食料の魚を下さったと感激した。
そして、その神の名を称えて、御食津大神と名づけ、
それが気比大神である。
鼻の傷ついたイルカによって、浦が血で臭かったので、
その浦を「血浦」と呼び、角鹿(つぬが)となった。
『日本書紀』垂仁天皇の条には、
意富加羅国の王子・都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、
またの名、于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)が、
当地、笥飯(けひ)の浦に到着し、角鹿と名づけたとある。
都怒我阿羅斯等は、白石から生れた姫神を追って日本へ来たともあり、
その姫神は、比売語曽社に祀られている。
『古事記』・応神記では、天之日矛(天日槍)が、阿加流比売という
赤玉から生まれた姫を追って来たとあり、
都怒我阿羅斯等は、天日槍と同一視されている。
これらの伝承により、主祭神・氣比大神に関しても、
仲哀天皇説や、都怒我阿羅斯等説、さらに天日槍説などの異説がある。
以上のことから、氣比大神は、海人族による朝廷への服従のシンボル、
特に、海の幸の献上から、食物の神霊を祀った神であったものが、
海人族を通して、半島との交流が盛んになると、
半島神へと、その性格を変えていったと見ることもできるだろう。
大宝2年(702)、勅命により、仲哀天皇・神功皇后を合祀し、後に、
日本武命(東殿宮)、応神天皇(総社宮)、玉妃命(平殿宮)、武内宿禰(西殿宮)の
本殿四隅に四ノ宮として祀られ、祭神七座となった。
ここで、玉妃命(神功皇后の妹)が、
白玉の姫を追った都怒我阿羅斯等、赤玉の天之日矛を連想させる。
社伝では、氣比大神が、この玉妃命に神懸り、神託によって、
神功皇后が三韓平定を行なったとある。
境内にある角鹿神社祭神は、都怒我阿羅斯等であるが、
角鹿国造の祖・建功狭日命であり、都怒我阿羅斯等とは無関係とする説もある。
また、境内の遺址である土公については、
当社の東北方向に、聳えている天筒山(171m:祭神の霊跡)の遥拝所であり降臨地。
あるいは祈祷所。あるいは当社の古殿地。あるいは古墳。あるいは経塚など、
諸説あって、よくわからない。
霊亀元年(715)。藤原武智麻呂が、霊夢により氣比神宮寺を建立した。
これが、神宮寺の初見と言われている。
祭神を、天日槍と考えると、但馬國一宮・出石神社との関連が考えられる。
ともに、日本海側の大社であり、半島に関係がある。
神紋も、同じ。
小さな石橋を渡り、朱塗りの大鳥居をくぐって参道を歩くと、
垣に囲まれた境内に到着。中鳥居の前には、旗掲松がある。
これは、延元元年(1336)氣比神宮宮司が後醍醐天皇を奉じて
旗揚げしたと言われる松。
鳥居 | 境内 |
氣比の大鳥居(旧国宝)
当神宮は古く仲哀天皇の行幸・奉拝祈
願があり悠久二千年の歴史を有する
元の官幣大社で北陸道総鎮守・越前国
一之宮である。大鳥居の歴史は通称
赤鳥居として嵯峨天皇弘仁元年(八一〇)
の造営時に東参道口に創建されたが
度重なる災害に依り倒壊した為正保
二年(一六四五)境域の西門に配し同礎石
を移し寛永年間旧神領地佐渡国鳥居
ヶ原から伐採奉納の榁樹一本で両柱を
建て再建されたのが現在の朱塗の大鳥
居である。明治三十四年国宝に指定(現
在は国の重要文化財)木造では天下無
双の大華表と古くから呼称され各時代
それぞれに権威ある伝統技術によって
保存修理が行なわれ今日にその偉容
を伝えている。尚正面の扁額は有栖
川宮威仁親王の御染筆である。−社前案内板より− |
中鳥居正面に、南面して社殿がある。
本殿四隅に四社ノ宮。社殿の左手に、九社ノ宮。
本殿と四社ノ宮を、内五社といい、
九社ノ宮のうち、御子神七社を、外七社とも呼ぶ。
旧本殿は国宝であったが、戦災で焼失。戦後に再建された。
鳥居と社殿 |
社殿 | 社殿 |
本殿 |
大宝二年(七〇二)勅に依り社殿の修営を行ない仲哀天皇 神功皇后を合祀した。また日本武命をはじめ四柱神を 別殿(四社の宮)に奉斎した。延喜式に「祭神七座並 名神大社」とあり類聚三代格には「神階正一位勲一等」と 記されており此の七座の神は一座ごとに官幣(大社)の 奉幣にあずかっている。歴代天皇をはじめ衆庶の尊崇 きわめて篤き所以である。明治二十八年官幣大社に 昇格し神宮号宣下の御沙汰を賜わって氣比神宮と 称した。之単に北門の鎮護たるのみでなく日本有数の 古名大社として通称「氣比さん」の名で親しまれ全国に 幅広い信仰を集め九月二日より十五日に及ぶ例祭は 「氣比の長まつり」としてその名を留めている。 上古より歴朝の奉幣は実に枚挙に遑なく行幸啓も 極めて多く戦後では昭和四十三年畏くも天皇皇后両 陛下の御親拝を仰ぎ、又昭和六十二年五月七日昭和の 大造営に依る本殿遷座祭にあたり、再度幣帛料の 御奉納を賜わり厳粛なる奉幣祭が営まれた。 戦後の都市計画で境内は大幅に削減されたが、由緒 ある摂末社十五の中、当地敦賀の地名の発祥である 式内摂社角鹿神社がある。 −社前案内板より− |