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臼谷八幡宮
うすたにはちまんぐう
富山県小矢部市臼谷6967

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式内社 越中國礪波郡 荊波神社 |
富山県小矢部市にある。
北陸自動車道の小矢部市I.C.の西4Kmほどの臼谷に鎮座。
北陸自動車道の北、27号線から少し入った場所に南向きの境内。
左右からの道がカーブしながら合流する場所にあるためか、
社前が広くなっている、そんな境内。
境内入口に「八幡宮」と刻まれた社号標。
当社の正式名は「八幡宮」だが、社前の案内板では臼谷八幡宮とあった。
他の八幡宮と区別するため、当サイトでも臼谷八幡宮としておく。
階段を上ると鳥居があり、広くて新しく綺麗な境内。
当社は、平成十七年四月二十四日、不審火のため焼失してしまったが、
平成十九年九月再建されたものなのだ。
短期間にここまで綺麗な神社として復興されており、
氏子の方々の崇敬の篤さに頭が下がる、そんなこと考えながら参拝。
古くて長い歴史を氏子の方々の手によって守られてきた神社も良いけど、
新しく生まれ変わった神社も、また美しい。
参道を進み階段を上ると当社の社殿。
拝殿は銅板葺入母屋造りで北陸に多いガラス張りになっている。
拝殿の後方の階段の上に、本殿を納めた覆屋がある。
本殿の右手に臼谷の大杉と呼ばれる、富山県指定天然記念物の大杉。
樹高37メートル、幹まわり8.5メートルだったらしいが
火災のせいか上部が切断されており、黒く焦げている。
創祀年代は不詳。
臼谷の地は、往昔、藪波里と称していたようで
式内社・荊波神社の論社とされている古社。
蟹谷郷の総社として崇敬された神社。
当地から西へ向かい金沢へ抜ける道は「小原越」と呼ばれ、
北陸街道の脇道として古代から栄えた道らしい。
奈良時代、大友家持が国守として当地を検察に来た時、
雨のため帰宅できず、
荊波の里に宿借り春雨にこもりつつむと妹につげつや
と詠んだ歌が万葉集に残っている。
ただし『富山県神社誌』には、平安中期の創祀ではないかと記されている。
昭和三年一月二十六日、小白山社、酒列磯前社、諏訪社を本殿に合祀し、
昭和三十年八月二十七日に社殿を新築再建したが、
前述の通り、平成十七年に焼失し、現在の社殿は平成十九年の再建。
当社の神紋に関して。
拝殿や本殿覆屋の屋根や、覆屋内の本殿の扉に、菊紋と桐紋が付けられている。
社頭 |
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鳥居 ![]() | 境内 ![]() |
拝殿 ![]() | 社殿 ![]() |
社殿と大杉 |
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本殿覆屋 ![]() | 本殿 ![]() |
本殿から境内 |
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万葉歌碑 ![]() | 臼谷の大杉 ![]() |
臼谷の岡村遺跡は、縄文中・後期(四〇〇〇年〜
五〇〇〇年前)の集落跡といわれ、また、字岡ノ城の
河岸段丘の上には、奈良時代より中世にかけて
の集落の跡が残されている。 臼谷字岡ノ城に鎮座する八幡宮は、往昔より 蟹谷郷の総社であるといわれ、旧号、荊波神社 と称し、延喜の神名帳にある越中国砺波郡鎮座 の荊波神社であると伝えられている。 奈良時代、越中守大友家持は、国守として墾 田地の検察に、この地に来り 思いがけぬ雨に であい、帰ることができなくなり 荊波の里に宿借り春雨に こもりつつむと妹につげつや(万葉集巻の十八) の一首を詠んだという。 臼谷の地は古来より 八幡宮をはじめ、小白 山、臼谷砦、小原道、小原越等々 史跡多く、 また、ぶな、うらじろかしの混生林、或いは、 年中清冽な清水を湧出し、人びとに愛用された 大清水、あしつき等あり由緒の地である。 ここに、臼谷にまつわる歴史、文化の沿革を 石に勒して後世に伝える。 −社頭案内より− 歴史の道 小原越 小矢部市浅地から、名畑・末友を経て県 境の松根城跡のある峠を越え、金沢市吉原 町に至る小原越は、北陸街道の裏街道(わ きみち)として古くから利用されていた。 この道は、倶利伽羅峠越えの北陸街道と 違い、山の尾根が主の道すじで比較的緩や かである。そのうえ金沢への近道とあって 砺波地方の開拓が進むにつれ馬を利用し米 を主体に塩その他種々の物資が運搬された。 この小原越に対して今石動、倶利伽羅、 竹橋を経由する北陸街道は、本通りとして 種々保護されていた。加賀藩は脇道の小原 越がよく利用されると、街道沿いの宿場が 衰え、住民の生活が成りたたなくなること を恐れた。 藩は、宿駅を保護するため金沢への届米 は竹橋・津幡宿場の馬で運ぶよう達しを出 した。しかしながら小原越は加越の住民に とって生活に密着した重要で愛着ある道で あり続けた。 −社頭案内より− |
