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熊野神社
くまのじんじゃ
富山県富山市婦中町中名字北浦851
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富山県富山市婦中町にある。
速星駅から、まっすぐに南へ2Kmほどの中名。
神通川と井田川に挟まれた地。
交差点に、東向きに鎮座。
境内は、あっさりとした広場という感じ。
大祭では舞台が設置され、稚児舞奉納で賑わうらしい。
立山を開いた佐伯有若が、立山山麓に創建した熊野神社を、
来迎寺の光明坊が、改宗し、来迎寺の移転と共に、
現社地へ移したものと伝えられている。
来迎寺は、その後、富山町に移転したが、
当社は残り、佐伯氏の子孫である坪野村源左衛門に託された。
宝永元年に、当地に悪病が流行り、
当社祭祀が怠っていたことが原因とされ、
祭儀を復興し、現代にいたっている。
境内西側に社殿があり、後方に一段高く本殿。
本殿はガラスで覆われている。
鳥居 | 社殿から鳥居 |
境内 |
本殿 | 拝殿 |
爲成郷十八ケ村総氏神熊野神社御由緒記
当神社は伊奘册尊、速玉男命、事解男命の三神を
祀る 往古よりの大社として社家社僧が奉祀
し鎌倉初期の承元元年に立山の光明房林海を
始め時宗系の僧徒も奉仕したと伝える。應仁年間京都の神祇管領吉田神社よりも神官 が下向奉仕したという 創建当時より当神社 は婦負郡爲成郷十八ヶ村、中名、蔵島、持田、萩島、道場、 堀、新屋、袋、板倉、砂子田、坪野、添島、清水島、地角、海川原、 爲成新、道喜島、十五丁の総鎮守として今猶当 社を氏神と崇敬し毎年初穂米を神納されてい る 永禄年中兵火に遭いたるも寛永年間以来 領主前田家累代の信仰厚く宝永七年社殿を造 営古式の祭典をも復興することとなった。 明治六年指定村社に列せられた。 宝永元年秋爲成郷内に悪疫が流行し当時の 肝煎職であった坪野村の若林源左衛門の息子 と召使の者が相次いで病気にかかった その 時爲成郷の各村村の人達が当熊野神社の祭事 を怠っており神が怒り給うのである。爲成郷 の肝煎役責任者である汝若林源左衛門は直ち に村村の人達と相談して祭事を復興するよう にという熊野大神の託宣があった。そこで源 左衛門は私財を投じて盛大な祭りを行ったと ころ悪病はたちまち退散し豊作に恵まれそれ 以来爲成郷内の氏子一同挙げて祭禮を盛大に 奉仕することとなった。 これに由来して御遷宮式と称し宝永七年庚 寅に第一回とし十二年の寅の年毎に坪野村の 若林源左衛門の屋舗を御旅所と定め爲成郷の 各村村を神輿が御巡幸される大祭典を爲成郷 の里を挙げて今もなお奉仕している。 稚児舞はこの時の祭りに由来し例年八月二 十五日の例大祭に拝殿の正面に舞台を設置し 氏子より選ばれた十才迄の男児大稚児二人小 稚児二人計四名で舞楽を奉納している。 この舞楽の種目は次の順で舞うことに定め られている
−境内案内− |
【 熊野神社 (中名) 】