[HOME]  >  [神社記憶]  >  [北陸地方]  >
メニューを消去する。ページを印刷するために。 印刷用ページ


金劔宮
きんけんぐう
石川県白山市鶴来日詰町巳118  Zenrin Data Com Maps display !!


五七の桐

白山七社の本宮四社
旧県社

御祭神
白山第一御子彦神  あるいは 天津彦火瓊瓊杵尊
配祀 菅原道眞 大山咋命 少彦名命
合祀 護國の英靈

石川県白山市にある。
北陸鉄道石川線・鶴来駅の南東500m、
中鶴来駅の北東500mの鶴来日詰町にある。
両駅と当社で、ちょうど正三角形になるような位置。

45号線から南東へ延びる道の突き当りに参道入口があり、
「縣社 金劔神社」と刻まれた社号標が建っている。

参道を進み、鳥居をくぐり、階段を上ると
103号線が社前を通っており、境内左手に当社の駐車場がある。

境内入口には「金劔宮」と刻まれた社号標があり、
数段の階段を上ると広い境内。

正面に大きな拝殿があり、拝殿の後方に流造の本殿。
境内左手に境内社が並んでおり、
左手奥から、招魂社、粟島社、丈六社、
金刀比羅宮、恵比須社、乙劔宮と並んでいる。

恵比須社の前には、天之真名井。
舞殿の横には、義経腰掛石や天忍石(牛石)などがある。
昔は、義経の笈掛け松もあったらしいが、今は朽ちて存在しない。

社号の金劔宮は、境内由緒書・『石川県神社誌』には「きんけんぐう」、
『平成祭データ』には「つるぎのみや」、
『神社名鑑』には「かなつるぎのみや」、
『明治神社誌料』には金劔神社と記され
「かなつるぎのじんじゃ」と読みが付けられている。

長野から高速を走って、当社へ到着したのは朝の四時頃。
まだまだ境内は暗かったので、とりあえず参拝を済ませ、
明るくなるのを待って、撮影を始めたが
光が足りなかったため、全体にピントのボケた写真となった。

が、日の出前の青い境内は、それだけで神域にいる雰囲気で良い気持ち。
燈籠の明かりがオレンジに輝いていた。

社伝によると、
崇神天皇三年三月の創祀。
一説には、弘仁十四年、あるいは神亀四年僧泰澄による再興とも。

仁明天皇承和の頃は社殿荒廃し神官も離散していたが再建され、
朱雀天皇承平三年正三位に叙し、
円融天皇永観元年従二位に昇り、寛弘四年正一位に進んだという。

祭神は、天津彦火瓊瓊杵尊
あるいは白山第一御子彦神(妙理権現第一王子)とも言い、
異説として天照大神とも。

白山七社の本宮四社の一社にして、
七社中、本宮・当社・佐羅宮を三社の神輿と呼ばれていたらしい。
神仏習合時代は、劔白山の神人衆徒として隆盛を極め、
延元元年、新田義顕軍に対する神の応援、
寿文二年五月、木曽義仲砺波山倶利伽羅谷戦勝の報賽、
文治二年二月十日源義経が当宮で神楽を奏したことなどが
史書に書かれているらしい。

当社の古名は劔宮。
鶴来町の地名の由来ともなった古社。

文献等では金劔宮と記され、
明治以後、金劔神社と改称したが、
現在は、以前の金劔宮に戻されたらしい。

明治五年郷社に列し、明治十三年白山比咩神社摂社に定められ、
明治二十八年十二月県社に昇格。

拝殿の右手に神馬像があり、桐紋が付けられていた。
『神社名鑑』にも、当社の神紋は五七桐紋と記されている。


参道入口

鳥居

参道階段

境内入口

境内

境内

本殿

拝殿

招魂社

粟島社・丈六社

恵比須社拝殿と天乃真名井

金刀比羅・恵比須社・乙劔宮

天忍石(牛石)

義経腰掛石

金劔宮の由緒
古代出雲文化が早く海岸線を経て能登地方に及んだのに対し、この地方は大和文化の拠点であるばかりでなく、総じて県内では最も古い文化の発祥地であるから神社の由緒でも有名なことがらを数多く残している。
中世以来白山七社の一に数えられ、そのうち白山本宮・三宮・岩本とともに本宮四社といわれていた。
神仏習合の当時、いわゆる七堂伽藍雲表にそびえ神官社僧、即ち神人衆徒多数をようしていた。
安徳天皇の寿永2年5月、源義仲が倶利伽羅谷で平家の軍勢を打ち破ったが、これを金劔宮の神恩として、鞍置馬20頭と横江庄を寄進し、それから3年の後、後鳥羽天皇文治2年2月10日、源義経が本社に参拝一泊し、神楽を奉納している他、足利・富樫・前田等、歴代武門藩主の崇敬が篤かったのである。
なお、和銅年間に当宮のご分霊を奉戴して移住したといわれる岐阜県郡上郡大和町字「劍」には現に金劍神社(こんけんじんしゃ)があり、御祭神も同一である。
最近になり福井県遠敷郡上中町武生にも金劔神社(かねぎじんじゃ)の存在が明らかとなった。

−『平成祭データ』−



金劔宮
御創立以来二千有余年を経た古社であって、古来尚武健康の 神として崇敬が篤い。
一、祭神 本社の主神は瓊々杵尊大國主神大山咋命日本武命事代主神猿田彦神などを併せ祀る。
二、由緒 本神社の創立は崇神天皇の三年三月とす(神社蔵記録諸 神記・白山記攻証)
創立 けだし鶴来町の発生と同時にこの地に鎮齋せられたもので 鶴来町の古地名は劔と記し社名又古く劔宮・劔神社と唱えた。
このことは地名と社名が一致したる好個の事例である。
近世に至って専ら金劔宮と奉称した。
隆盛 中世以来白山七社の一に数えられ内、白山本宮・三宮・岩本 と共に本宮四社と称した。
神仏習合時代本社は隆盛を極め宝物殿・拝殿・講堂・宝蔵・ 三重塔・鐘楼・荒御前、糺宮、大行事、乙劔(白山荘厳講記録) 等所謂七堂伽藍雲長に聳え神官社僧多く劔白山の神人衆徒 と号して勢力を有した。應永十八年に大般若経六百巻を 出版して神前に奉納した。超衝・又寛正六年に善光寺紀行を 降って文明十七年北國紀行を著した堯恵は共に本宮の住侶 社僧であった。又源義経の参拝(義経記七)木曽義仲の 奉賽(源平盛衰記二九)の史実を始め武門武将藩主領主の 武神としての崇敬の篤かったことは諸書に明らかである。
神事 神事としては古くは競馬・流鏑馬舞童等が行われた。
又神社の神輿は白山・佐羅と共に三大神輿といい叡山を 経て時あって上洛したので京野にもその名が聞こえた。
現在十月三日・四日、秋季祭神事の神輿渡御とこれに伴う 神賑催物獅子舞(捧ふり)・名物造物等はこの神輿ぶりの 伝統を伝えその優美で勇壮な賑いは他に類を見ない。
旧社格 明治五年十一月二日郷社、明治二十八年十二月二日県社に昇格。
大正十三年四月三日御創立二千年祭を、又昭和三十七年 十月五日御創立二千五十年祭を執行して現在に至っている。
一方明治三十九年境外末社・大國社・恵比須社・日吉社・ 大鳥社・四社を合併。明治四十一年、境内末社菅原社、 大正三年には村社日吉神社を夫々合祀した。
境内 境内地三千六百三十四坪
境内神社に乙劔宮・金刀比羅宮・丈六宮・粟島神社・ 金劔宮恵比須社(天地悠久の大神霊と大阪今宮戎神社 御分霊を併せ祀る)があり又、名勝として天乃真名井 (戸の池殿池明瑞水)・丒石(牛石天忍石)・義経腰掛石・ 岩清水不動尊がある。

−境内案内板より−



義経腰掛石について
源義経、奥州へ落ちのびる途次、金劔宮に 詣でた。その折境内のこの石に腰掛け、眼下に 広がる平野や手取川を眺めたと伝えられる。 義経記巻七に、「安宅の渡りを越えて根上の 松に着き給ふ。……明くれば白山に参りて 女体后の宮(白山比咩神社)を拝み参らせて、その日は 剣の権現(金劔宮)の御前に参り給ひて、御通夜 あり、夜もすがら御神楽参らせて、……」と、 あるによるなり。
尚、往古義経笈掛の松もありしと言う。
※笈=修験者や修行僧が経典や衣類を入れて 背負った葛篭
天忍石(牛石)について
「社頭に影向石あり、天忍石と呼ぶ。古 神霊此の石頭に降臨したまへしと言う。」
(鶴来町誌 明治十六年刊)より。
尚、牛石とも言う。形状小牛に似ている故なり。
※影向=神仏が一時姿を現すこと

−境内案内板より−



【 金劔宮 金剣宮 金剱宮 (鶴来) 】

ボーダー




北陸地方
japanmap
全国 北海道・東北地方 関東地方 甲信越地方 北陸地方 東海地方 関西地方 中国地方 四国地方 九州・沖縄地方
富山県
下新川郡 朝日町
下新川郡 入善町
滑川市
魚津市
高岡市
黒部市
射水市
小矢部市
中新川郡 上市町
中新川郡 立山町
砺波市
南砺市
氷見市
富山市

石川県
かほく市
羽咋郡 志賀町
羽咋郡 宝達志水町
羽咋市
加賀市
金沢市
鹿島郡 中能登町
七尾市
珠洲市
小松市
能美市
白山市
鳳珠郡 穴水町
鳳珠郡 能登町
輪島市

福井県
あわら市
おおい町
越前市
吉田郡 永平寺町
今立郡 池田町
坂井市
鯖江市
三方郡 美浜町
三方上中郡 若狭町
小浜市
大飯郡 高浜町
大野市
丹生郡 越前町
敦賀市
南条郡 南越前町
福井市