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出水神社
いずみじんじゃ
石川県加賀市橋立町ホ−1−甲
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式内社 加賀國江沼郡 出水神社 |
石川県加賀市にある。
大聖寺駅から北へ6Kmの橋立町に鎮座。
北前船の里資料館へ続く道から、西へ少し入り、
北前船主屋敷蔵六園へ向う道の途中に、境内入口に鳥居が北向きに立っている。
社号の「出水」は、
このページを書き始めた、ついさっきまで、「でみず」と読んでいたが、
「いずみ」と読むらしい。
境内に入り参道を歩くと、境内の鳥居と、
「江沼郷橋立村由来記」が記された石碑。
石碑には、当地の開祖・石巣宿彌尊が、驞䮳(ひんば)の背に乗った姿。
さらに参道を歩き、階段を上ると、境内。
正面にガラス張りの社殿があり、後方に本殿。
境内には、稲荷らしき境内社などが祀られている。
創祀年代は不詳。
一説には景行天皇の御代、橋立の開祖・石巣宿彌尊が勧請。
その後宝亀元年、石巣宿彌尊を氏神として合祀したという。
式内社・出水神社に比定されている古社。
古くは、「出水ノ澗」といわれる海辺に鎮座していたが、
波濤により崩壊したため、橋立村の出水山へ遷座し、
御山社とも称したという。
また、一向一揆時代に八幡宮を合祀し、西宮八幡とも称していたが、
明治五年になって、現在地である蛭場山へ遷座し、
明治十五年、出水神社の社号に復したという。
社殿の屋根や、拝殿内の幕に、桐の紋。
境内 |
境内 | 社殿 |
境内 |
稲荷社 | 本殿屋根 |
出水神社由来記
加賀国江沼郷橋立村由来記 加賀国江沼郡橋立村の御開祖は石巣宿彌尊なり。人皇第十代 景行天皇の十七年に、大漁の神と奉斎する驞䮳(ひんば)の背に乗り、こ の浜に御上りありて洞家を掘りて御住家とまします。御子に石 綱、御娘に岸女あり。驞䮳を洞中に飼い置くに、家に海猟あり て子孫繁盛す。あまねく天の下の海猟の元とす。人皇第四十九 代光仁天皇の宝亀元庚戌の年(西暦七七十年)の九月七日に氏 神を奉斎する。その頃は茅屋十四軒、男女四十六人あり。氏神 の尊は天津日高子穂々出見尊、先神は御神の苗裔の石土毘古尊、 上筒男、中筒男、底筒男、いずれも海水神なり。天通岐志、国 通岐志、天津日高神、底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津神、大綿津見神、豊玉毘賣神は出見命の御后の神なり。 玉依毘賣神、宇都志日金折命、海犬養、安曇犬飼尊、いずれも海水神 なり。氏神の相殿に応神天皇を祭神とするは、人皇代は不詳。 清和天皇の御頃に大安寺僧の行基法師は宇佐に参詣し、霊告あ りて山城国男山正八幡の宮の奉斎者なり。村方の地形は、北の 子に水気あり。水溢るる象あり。南の午は火性に水火既済の象 あり。水は和合せず、水木退気あれども、返事ありて生気向か い。吉方の方位なり。総て建家構等押門尖り。午方位に水気置 く事なかれ。福門尖にて、水気置く事あり。天門尖りに金置く 事あるべし。氏神社より南二町の小塚は大漁驞䮳の塚なり。応 安年中より永正年間(西暦一三七十〜一五二十年)に天下は飢 え死に、ゆえにその後より田畑開かれたり。永正年間は村方大 いに衰えたり。文禄年間(西暦一五九二〜一五九五年)頃より 益々繁盛すべし。いずれも氏神を信仰すべし。村方の盛衰の写 しのまま記し置くものなり。 −境内石碑− |
【 出水神社 (加賀市) 】