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柴神社
しばじんじゃ
福井県吉田郡永平寺町松岡春日3−1  Zenrin Data Com Maps display !!




五三の桐

式内社 越前國坂井郡 柴神社
旧郷社

御祭神
天兒屋根命 武甕槌命 齋主命 姫大神
配祀 上柴神

福井県の永平寺町にある。
松岡駅の南西500mほどの松岡春日に鎮座。
道路に面して石の垣が続き、小さな丘全体が境内のようだ。

鳥居の左側に、境内社らしき剣神社がある。
こちらにも鳥居が建っており、「剣神社」と刻まれた社号標が建っているが
鳥居扁額には「不動明王」と記されており、
社殿には「吉祥院不動明王」と書かれていた。

本社入口の鳥居をくぐると、
鬱蒼と茂る樹木のために暗い参道の階段。
階段をのぼると神門があり
神門の奥が、明るい境内。

境内奥に拝殿があり、後方の斜面の上に本殿がある。
境内には、万治三年に造営された旧拝殿の礎石が置かれている。

社伝によると養老元年の創祀。

式内社・柴神社に比定されている古社。
芝原庄第一の総社として柴神社と名付けられたが
江戸時代には、柴岡神社、春日神社とも呼ばれていた。

天文年間に初代神官・占部中務を置き、
二代目は大貫豊後、三代目は松本大之進という。

平安初期には、上柴社、下柴社に分かれていたといい、
九頭流上流左岸丘陵に、従四位上柴神が祀られ、
春日信仰と結びついて、春日大明神と称し
芝原郷八ケ村の鎮守として崇敬された。

中世の社は一向一揆によって焼失したが
天正十九年(1591)、北ノ庄に入封された堀秀治公により再建された。
当時は、現在地よりも九頭龍川よりの葵町あたりにあったらしい。

江戸期に入り、芝原の地に福井分藩松平昌勝公が入封し
館第を当社鎮座地に築くため、万治三年、現在地に遷座。

当社の別当寺は宝泉院と称していたが、
松平昌勝公の法号・豊仙院の呼び名を避けて吉祥院と改称された。

明治になって別当支配が廃止され、
明治四年十月十五日、春日神社の名を柴神社に戻し、郷社に列した。

社前の剣神社の他にも、境内左手に境内社がある。
確認したのは以下の三社。
大国社・稲荷社・日吉社(稲荷社を合祀)。
境内社の祠の横に、立石が二つあるのだが、
一つに立石の周りには、放射状に石が組まれていた。
古代祭祀の名残だろうか。


社頭

剣神社

鳥居

参道階段

神門

境内

拝殿

旧拝殿礎石

境内社と立石

大国社

稲荷社

日枝社

式内柴神社由緒
祭神春日四柱大神
天児屋根命武甕土命斎主命姫大神
 養老元年江上郷鎮座と伝えられ延喜式 に記載されている 芝原一円の鎮守社と して崇拝され、天文年間に至り京都より 占部中務が来て初代神官となる 別當を 寶泉院(後吉祥院)という 社地は現在 の葵丁にあったが、松平昌勝公の福井藩 分藩地が松岡に定まり館第の建設にあた り慶安三年に当地に移転した 社領五十 石(曽万布深見)と五人扶持、荒子一人 春日神社とも呼ばれた 祭礼は江戸期に は四月と九月の二十一日に行われ、神楽 渡りと各大字より町手鉾・有志者より、 御馳走手鉾が出された
 社殿については一向一揆にて焼失した のを北ノ庄領主堀秀治が再興し、江戸期 に入り万治三年松平昌平が新たに造営し たが、昭和二十三年福井地震にて倒壊し た 現在の本殿は昭和二十五年拝殿が昭 和三十三年に再建されたものである
 なお旧社地は松岡古墳群の祭祀場とし て最適の地であったとも考察される


−拝殿由緒書きより−



【 柴神社 (永平寺町) 】

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