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建石勝神社
たていわかつじんじゃ
富山県魚津市吉島2972

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式内社 越中國新川郡 建石勝神社 |
富山県魚津市にある。
魚津駅の東2Kmほど、八号線バイパスに面して、
東向きに境内がある。
鳥居はバイパスに向かって立っており、
前方に、黒部の山々を望む場所。
境内は、あまり広くはないが、
道路整備のために、境内が削られたのだろうか、
そんな感じの境内の様子だった。
創祀年代は不詳。
式内社・建石勝神社に比定されている神社。
往古は壮大な大社であったが、
戦国時代、長尾謙信の越中攻略により中絶し、
後、天保年間に現在地に再建されたという。
当社の東1Kmに立石という地があり、
当社の古社地ではないかという説がある。
その地に林があり、大きな立石があるらしく、
もとの御神体だと思われている。
現在の建石勝神社の御神体も、石であるといい、
この石は、経田の老婆が運んできたもの。
老婆は石を担いで、古社地へ向かう途中、
現在地の前まで来たところ、石が動かなくなり、
当地に社殿を構えたという。
狭い境内だが、神馬像もあり、
その腹に、三つ巴の紋が付けられていた。
社頭 |
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神馬像 ![]() | 社殿 ![]() |
境内 |
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天正年間まで別当を設置し、祠官二名、その他巨額の社 領などがあったという。戦国時代、越後の国主長尾謙信が 越中攻略の際、社殿などことごとく兵火にかかり、その後 中絶していたが、天保十一年、現在地に再建した。 昭和九年、本殿を再建。昭和五十年、神社本庁神社振興 対策指定神社となる。 平成四年、建設省の一般国道八号線バイパス事業により、 境内地を一部変更。それを機に社殿を新築、境内を整備し、 造営事業を完成した。 −境内石碑より− |
後日、古社地の立石を探してみた。
『式内社調査報告』には、「建石勝神社から約一キロメートル東」
「吉島市営住宅団地の西端、吉島地区と六郎丸地区の境界地点」に
「立石大権現」と言われる古跡があり、
現在も道路脇の榎の下に残っていると記されている。
とりあえず、吉島住宅団地の周囲を探してみたが、
それらしいものは見当たらず、付近のお年寄りに聞いても知らないという。
そこで、「木の下に石があって・・・」というと、
「じゃ、あそこかもしれない」と教えられた場所には
木の切り株の周りに7・80cm程度の石が三つ転がっていた。
以前は大きな木が聳えていたが、枯れたので根元から伐採したという。
「立石」というよりも「丸石」という印象だが、
かたわらには石仏が二体置かれており、何かが祀られていても不思議ではない感じ。
でも、これが「立石大権現」かどうかは確認できなかった。
その後も、周囲の道や吉島と六郎丸の境の北にある立石地区も
車で走り回ってみたが、それらしきものは見当たらなかった。
もっと小まめに探せば、立石大権現はあるのかもしれないが、
見当たらないということは、僕には縁がないのだろうと探索をあきらめた。
道路脇に石 ![]() | 側に石仏 ![]() |
切株は草に覆われていた。榎かどうかわからない |
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せっかくなので立石地区の氏神・五社之社にも参拝。

『富山県神社誌』によると、立石の五社之社の創建は鎌倉末期の嘉暦年間。
片貝川の洪水のため、両岸の尾崎地区を含めた周囲の村落が流出し、
その後、復興して立石部落結成と同時に勧請されたもの。
富山には五社之社という神社がいくつかあり、西尾崎、東尾崎にも同名の社が存在する。
これは西日本に多い社日と関連するような気がする。
社日とは五角形の石柱に五柱の神名を刻んだ田の神。
祭神は、本来は五柱の神のはずだが、現在は伊弉諾尊と伊弉冊尊。
立石の五社之社 |
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社号標 ![]() | 社殿 ![]() |
