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禅定神社
ぜんじょうじんじゃ
福井県鯖江市尾花町12−23−1
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式内社 越前國今立郡 刀那神社 |
福井県鯖江市にある。
鯖江駅の東11Kmほどの尾花町に鎮座。
北陸自動車道を越えて、東へ。
18号線をさらに東へ進み、
192号線に入って1Kmほど東へ進むを尾花町がある。
その尾花町で北へ入り、少し上った場所に境内がある。
式内社・刀那神社を探している時に、当社に到着。
なんとも良い雰囲気だったので、とりあえず参拝しておこうと立ち寄った神社。
境内周囲には杉木立が多いのだが、
鳥居をくぐった広い境内は、すっきりとした印象。
境内奥(東側)の石組みの上に社殿がある。
で、参拝後に拝殿の扁額を見ると「式内刀那神社」と記されていた。
鳥居には「禅定神社」とあったのに、どういうことだろうか、
と考えながらの参拝。
この参拝時点では、刀那神社が禅定神社に合祀されたのだろうか
などと考えていた。
創祀年代は不詳。
社記によると、
「御神体の儀は人皇二七代[原文ママ]継体天皇の茨田皇女、
故ありてこの地三社森にて薨ぜられる。
故にこの地茨田谷と称し、
その後、この地近郷を河和田谷と申す」とあり、
茨田皇女の遺徳を偲んで、三社森のこの地に社を建立し
刀那神社と称して、皇女の御霊を祀り、
近郷一帯の総社として崇敬されたという。
明治四十二年五月、寺中の河和田神社に合祀され、社地は消失。
が、昭和二十三年当地の禅定神社へ戻されたらしい。
尾花町には禅定山があり、
山腹に泰澄が堂を開き、伊弉册尊を帝釈梵天王に配し
参詣者で賑わっていたが、後、禅定神社と称したが、
当社は、その遥拝所として建立されたらしい。
ということで、整理すると
尾花町にあった刀那神社は、河和田神社に合祀され、社地消失。
戦後、当地尾花町の禅定神社に戻された。
よって、鳥居には「禅定神社」とあるが、
拝殿扁額には「式内刀那神社」とある。
ということか?
境内入口 |
社殿 | 拝殿扁額 |
境内 |
参拝を終え、境内を歩きまわっていると
境内右手(南側)の斜面の下へ続く、細い獣道のような道の下に
社殿の屋根が見えた。
当社の関連社か境内社か、気になったので
その斜面を下ってみると、やや小ぶりな緑の境内があり、
中央に石組の上に社殿。
拝殿の前に石碑が建っており、昔の漢字が使われていて
判読できない部分もあったが、
読んでみると、河和田神社へ合祀後に建てられた石碑で、
どうやら、刀那神社の旧地を示すものらしい。
ということは、
河和田神社から、尾花町の禅定神社に戻された後に、
何らかの理由で、旧社地に分離、あるいは分裂したのだろうか。
あるいは、
禅定神社から分離された刀那神社の拝殿前に、
旧社地にあった石碑を移した可能性もあるが。
とにかく、
残念ながら手持ちの資料では、詳しいことは判らなかった。
刀那神社は式内社・刀那神社の論社で、祭神は茨田皇女。
茨田皇女はこの地で薨去されたと伝えられている。
禅定神社境内右手の下方に社殿が見えた |
刀那神社参道 | 階段上に境内 |
刀那神社境内 |
本殿 | 拝殿 |
凡天地山川之神其霊威固森厳也奉仕之者須極戒懼敬虔之誠矣 柳舊三社之森刀那神社者其
勧請之年代雖不詳而祠堂之創建者實延享四●七月也云 維新以後交通漸頻行途之人遂年夥而
行人之過憩於社壇児女之遊戯干饣階者年一季加焉氏子等痛畏其褻神霊涜斎庭久也由是相議相
諮而明治四十一年九月卜日遂合祀神霊於寺中区八幡神社即郷社河和田神社而同四十四季三月
上浣移尊舊祠堂於此以為遥拝殿也者同村清水町区山崎五兵衛氏●有而偶為同氏所寄付也
彼三社森者伐樹番地既就耕耘耳氏子等欲彫石傳後而来需余々紀銘曰
遠是敬之極 拝是禮之摯 轉々胥和睦 禮敬薦幣帛 焄蒿髪 明治四十五年六月上浣 −刀那神社境内石碑− |