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放生津八幡宮
ほうじょうずはちまんぐう
富山県射水市八幡町2−2−27  Zenrin Data Com Maps display !!


五七桐 十六菊
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旧県社

御祭神
應神天皇 配祀 仁徳天皇

富山県射水市(旧新湊市)にある。
万葉線・東新湊駅の北西5・600mほどの八幡町に鎮座。
新湊漁港を背にする位置に広い境内がある。
海に近いせいか、境内は砂地。
昔は日本海の海風に曝されていたのだろうか、
などと考えながら参拝開始。

境内入口は西向き。
脚の部分を金属で補修された木造の大鳥居をくぐると境内。
そのまま正面(東)へ進むと突き当たりに大友家持を祀った祖霊社。
左手に曲ると鳥居が立っており、奥に大きな社殿がある。

拝殿は瓦葺入母屋造平入、本殿は銅板葺流造。
本殿の周りには松の木が茂っている。

拝殿の縁側の部分に大きな狛犬が一対。
参拝は七五三の季節で、拝殿ではお祓いの最中だったので
遠慮して、しばらく待ってから撮影するつもりだったけど、
お祓いが終わった時に御朱印をいただいたので、
狛犬のことはすっかり忘れ、残念ながら写真はない。

境内には大友家持の歌碑がある。
「東風伊多久布久良之 奈呉乃安麻能 都利須流乎夫禰 許藝可久流見由」
ゆの風い多久たく吹くら 奈呉海人あま 釣春流する小舟こ隠る見)。

また、松尾芭蕉が「奥の細道」の行脚に放生津を通ったとき詠んだ句碑も。
「早稲の香や分け入 右は有磯海」。

社伝によると、天平十八年(746)七月、大友家持が越中国司として赴任し、
天平勝宝三年(751)小納言に昇進、都へ帰るまでの五年間を高岡市伏木の国庁に在任。
奈呉浦の勝景を愛し、豊前国宇佐八幡宮の分霊を勧請して奈呉八幡宮とした。
当時から大祭には放生会が営まれていたことから、
嘉歴三年(1328)地名が放生津と改められた。

後、北条時政が再興したと伝えられ、
正和年間、 放生津城主名越時有が社殿を造営、社司別当を付し社領八幡田を寄進。
永禄年間、上杉謙信の兵火にかかり焼失したが、放生津城主神保長職が再興した。

藩主前田家の崇敬篤かったが、弘化二年(1845)二月、
放生津の大火にかかり社殿、宝物等ことごとく焼失。
氏子の大西弥兵衛等が藩命により社殿を再建。
現在の社殿は文久三年(1863)七月竣工したもの。

明治五年郷社に列し、同三十二年県社に昇格。
同四十四年、現在の放生津八幡宮に改称した。

当社の神紋は桐と菊。
拝殿提灯や神馬像に桐紋と菊紋の合せ紋が付けられている。

境内の右手に、境内社が二つ。
火ノ宮社(軻遇突智命)と来名戸社(八衢比古命 八衢比賣命)。


境内入口の大鳥居

境内鳥居

境内社殿

拝殿

本殿

社殿

火ノ宮社・来名戸社

祖霊社

境内

大友家持歌碑

松尾芭蕉句碑

霊松殿(神輿庫)

神馬像

放生津八幡宮
 天平十八年(七四六)大伴宿祢家持卿が 越中の国司として赴任。奈古之浦の風光 を愛して豊前の国宇佐八幡神を勧請して 奈古八幡宮を興す。後、北条時政が再興し たと伝えられる。正和年間(一三一二−) 放生津城主名越時有が社殿を造営、永禄 年間(一五五八−)上杉謙信の兵火にかか り焼失、放生津城主神保長職が再興した。 嘉永三年(一八五〇)四月、十三代加賀藩 主、前田斉泰公が放生津の砲台場を見分 の折り参拝奉幣す。安政四年(一八五七) 七月、知恩院第七十一世萬誉上人(当地出 身)の依頼により左大臣近衛忠凞公が真 筆の神額を奉納した。
社殿は高瀬輔太郎の傑作で、拝殿の大狛 犬は矢野啓通の作品である。十月一日、 秋季例大祭の神輿渡御に供奉する豪華な 十三本の曳山は、慶安三年(一六五〇)の 創設で元禄十年(一六九七)に出揃った。 翌二日、本祭日に飾られる築山並びに放 生会神事は、古代の素朴な信仰形式を継 承する貴重な民俗資料である。

−社頭由緒書−



放生津八幡宮 参拝のしおり
由緒
当宮は、聖武天皇の御代、天平十八年越中国守大伴宿禰家持卿が古国府(高岡市伏木古国府)に在任中、常に奈呉の浦の景勝を愛せられ、また、郷人に敬神の念を普及せしめんとの深慮により、豊前国宇佐八幡神を勧請して奈呉八幡宮と称したのが創祀といわれ、秋季大祭には放生会が営まれ、永々として今日に伝えている。当地放生津の地名は、慶暦三年これに因り名付けられたといわれる。正和年間守護職名越時有が社殿を社殿を造営、神領八幡田を寄進した。永禄年間上杉謙信の兵火にかかる。のち、放生津城主神保長誠社殿を再建した。天正年間藩主前田利長公、信仰篤く度々社参し、「八幡宮」の神額を染筆奉納す。弘化二年二月、放生津の大火にかかり社殿、宝物等ことごとく焼失した。現在の社殿は文久三年七月竣工したもので、名棟梁高瀬輔太郎、脇棟梁野上武平、同赤井弥左エ門の作で豪壮な流破風造りの代表的傑作である。西側境内の宝蔵造りの神輿庫(霊松殿)は、宝暦元年の造営で、神輿は寛延三年「能州所口の住人、後藤六代中川浅右衛門良直、同岩五郎」の作である。神域東北側に、天平二十年正月、大伴宿禰家持卿が奈呉の浦の風望を詠まれた。あゆの風いたく吹くらし奈呉の海人の釣する小舟こぎ隠る見ゆ(万葉集巻十七4017)の歌碑(佐々木信綱博士筆)がある。松尾芭蕉が「奥の細道」の行脚に放生津を通ったとき詠んだ。早稲の香や分け入る右は有磯海の句碑が翁の百五十遠忌にあたる天保十四年九月郷土の俳人子邁が建てる。

−『平成祭データ』原文ママ−



【 放生津八幡宮 (射水市) 】

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