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天之日矛
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天之日矛
あめのひぼこ

別名
天日槍/天日桙/海檜槍:あめのひぼこ
……
  • 新羅の阿具沼の辺で、一人の女が昼寝をしていた。その陰部に日光がさし女は赤い玉を産んだ。 その玉から変じた美女・阿加流比売を、新羅の王子・天之日矛は妻とした。 ある日、天之日矛は気嫌を損ね、激しく阿加流比売を罵った。 阿加流比売は「私はあなたの妻となるべき女ではない。祖国へ帰ります」と言って小舟を操り、日本に戻って難波で暮した。

  • 阿加流比売は元来太陽神の妻であると信じられた巫女で、日矛を奉じた人であったものと思われる。

  • 天之日矛は阿加流比売を追って日本へ来たが、海上の守護神に塞ぎられ、遂に難波には入れなかった。 やむなく但馬国(兵庫県)に入った天之日矛は、ここで多遅摩之俣尾の娘・前津見と結婚して子孫を残した。

  • 天之日矛が持って来た玉津宝(宝物)は、珠二貫(二個)、浪振比礼、浪切比礼、風振比礼、風切比礼、奥津鏡、辺津鏡の八種であり、 これらの神宝を御神体・出石の八前大神として出石神社に祀られている。

  • 『日本書紀』では、神宝は羽太の玉一個、足高の玉一個、鵜鹿鹿の赤石一個、出石の小刀一口、出石の桙一枝、日の鏡一面、熊の神籬一具の七種。 播磨、淡路、近江、若狭など転々と居を移り、最後に但馬に落ち着いたとある。また、出島の人太耳の娘・麻多烏と結婚したとある。

  • 『日本書紀』垂仁天皇の条に、意富加羅国の王子・都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、またの名、于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)が、 笥飯(けひ)の浦に到着し、角鹿と名づけたとある。都怒我阿羅斯等は、白石から生れた姫神を追って日本へ来たといい、 その姫神は、難波に至って比売語曽社の神となった。 このように天之日矛神話と同様の話が伝えていることから加羅国の王子・都怒我阿羅斯等は新羅国の王子・天之日矛と同神とする説がある。

  • 『播磨国風土記』には天日槍命とあり、神代の話として扱い、大汝命(大国主命)と相競う、強力な神として描かれている。 播磨の宇頭河まで来た時、大汝命に宿を乞うた。そこで大汝命が「海中ならばよい」と答えると、天日槍命は剣で海水をかいて泊った。 大汝命は、これは大変な奴だと、国を先取りするために播磨を巡り、ある丘まで来て食事をはじめた。 この時口から飯粒がこぼれたので、粒(いひぼ)の丘という地名が生れたとか、 大汝命と天日槍命の二人が谷を奪い合ったので、奪谷(うばひたに)の地名が起ったとか、 あるいはまた、この二神が黒葛三本を足につけて投げたところ、大汝命の一本は但馬の気多郡、一本は夜夫郡、一本は御方の里に落ちた。 天日槍命の三本はすべて但馬に落ちたので、各々そこを領したともある。

  • また、『播磨国風土記』には、伊和大神と天日鉾神の争いによる地名由来が記されている。
    宍禾郡雲箇里の波加村では、国を競って占拠したとき、天日鉾神が伊和大神よりも先にここに来た。 そこで大神はひどくあやしんで「はからざるに(対策しなかったので)先を越された」といった。
    神崎郡多駝里の糠岡は、伊和大神と天日鉾神の二柱の神が各々軍を組織して戦った。 その時伊和大神の軍は集って稲をついた。その糠が集って丘となった。

  • 天之日矛は前津見(『日本書紀』では摩多烏)と結婚して、多遅摩母須玖(『日本書紀』では但馬諸助)を生んだ。 その子孫は多遅摩斐泥−多遅摩比那良岐と続き、この比那良岐の子が多遅麻毛理、多遅摩比多訶、清日子の三人である。
    多遅摩斐泥は、『日本書紀』に但馬日楢杵とあり、そのあと「日楢杵、清彦を生み、清彦、田道間守を生みきといふ」とあって、 『古事記』と『日本書紀』では多少系図の位置が違っている。
    多遅麻毛理(『日本書紀』では田道間守)は、第十一代・垂仁天皇の命によって、トキジクノカグノコノミ(『日本書紀』では非時の香菓)を求め、 海を越えて常世国に渡り、十年かかって葉つきの枝と果実つきの枝を持ち帰った。多遅麻毛理は三宅連の祖となっており、菓子の祖神としても崇敬されている。

天之日矛 を祀る神社
(玄松子が参拝した神社のみ)

出石神社兵庫県豊岡市出石町宮内
御出石神社兵庫県豊岡市出石町桐野986
御形神社兵庫県宍粟市一宮町森添280
香山神社 境内 牛尾神社福井県大飯郡高浜町下車持44高森7−1

【 天之日矛:玄松子の祭神記 】

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