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安倍晴明 |
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安倍晴明
あべのせいめい
あべのせいめい
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- 平安中期の陰陽家。朱雀帝より一条帝に至る六代の帝に仕え、陰陽道を確立した。
系図類によれば、八世紀はじめの右大臣阿倍御主人(阿倍内麻呂の子)の系譜を引き(あるいは藤原不比等の子・藤原仲麻呂の後裔、あるいは孝元天皇の皇子・大彦命の後裔で)、 大膳太夫益材の子とされる。
天徳四年(960)に天文得業生として歴史に姿をあらわし、以後、天文博士・主計権助などを歴任して、大膳大夫・左京権大夫となる。 極位は従四位下。賀茂忠行・賀茂保憲父子を師として天文道・陰陽道を学び、名声きわめて高く、 天文密秦(天文の変化をいらはやく察してその吉凶を占いこれを天皇に奏すること)をはじめ、 天皇・貴族の陰陽道諸祭や占いに従事した。その占験の能力についての神秘的な伝説は、古くから数多く伝えられている。 - 『今昔物語集』には、識神(式神:陰陽師が術を用いて駆使する神)を自在に駆使して老僧との術くらべに勝った話や、
草の葉を投げて蛙を殺した話が載せられており、後世、日本第一の陰陽家としてあがめられた。寛弘二年(1005)九月二十六日没。系図類は年85とする。
- 著書に『占事略決』一巻があり、尊経閣文庫、京都大学に鎌倉時代書写の古写本が蔵せられている。
別に、晴明撰と伝える『簠簋内伝用篇』五巻(『続群書類従』所収)があるが、晴明の撰であるかどうかに疑わしいところがある。
- 安倍晴明は、神秘的な超能力の持主としてその死後における各種の伝承や文芸作品に登場・活躍した。
『続古事談』(1219)には、彼が大舎人であったころ、慈光という人相見が「一道の達者」となるべき人物だと占った話がみえ、若くして卜占の技に長じていたことを暗示する。
ことに著名なのは花山天皇の譲位を天体の異常な現象からみごとに予告したという『大鏡』の記述である。
他に、『古事談』(1212−1215)、『宇治拾遺物語』『今昔物語集』『源平盛衰記』『発心集』(鴨長明作という)、『峯相記』などに彼の事跡が伝えられている。
その中では、藤原道長が法成寺建立の工事現場にわもむいたとき、愛犬の白犬が道長の歩行を阻んだので、晴明に占わせたところ、道長を呪詛する者ありと断じ、犯人の「道摩法師」の居所を当てたという話が興味ぶかく、 道長の政敵の一たる左大臣藤原顕光の依頼で道長を呪詛した「道摩」とは、同じ話を伝える『峯相記』では「道満」であり、陰陽師として晴明と張り合っていた法体の人物であった。 この二人の、卜占をめぐる熾烈なる抗争は古浄瑠璃『信田妻』(作者不明)や義太夫『蘆屋道満大内鑑』(竹田出雲作、1734初演)などの名作として、 既往の所伝や芸能をふまえつつ江戸時代前期に結実したが、そこでは晴明は摂津国の安倍野の武士である安倍保名が和泉国の信田(信太)森の狐(白狐)の化身である女と契って生まれた子だとしている。 - 晴明にかかわる伝説の地は、陰陽師の拡散と定着につれて各地にひろがったが、
ことに賎民層を多数含んだ下級陰陽師集団が生業たるト占の技の権威づけのために晴明伝説を最大限に活用した面がつよかった。
晴明神社をひかえた京都の一条戻橋のあたりは、その中心地域で、晴明伝説の豊かな母体である。一説では彼の墓は京都東福寺門前の遣迎院の竹やぶの中にあるという。
- 晴明若カリケル時、師ノ忠行ガ下渡二夜行二行ケル共二歩ニシテ車ノ後二行ケル、忠行、車ノ内ニシテ吉ク寝入ニケルニ、晴明見ケルニ、艶ズ怖キ鬼共車ノ前二向テ来ケリ。晴明、比ヲ見テ驚テ、車ノ後二走リ寄テ、忠行ヲ起シテ告ケレバ、其時ニゾ忠行驚テ覚テ、鬼ノ来ルヲ見テ、術法ヲ以テ忽二、我ガ身ヲモ恐レ无ク共ノ者ヲモ隠シ、平カニ過ニケル。其後、忠行、晴明ヲ難去ク思テ、此道ヲ教フル事瓶ノ水ヲ写スガ如シ。然レバ、終二晴明、此道二付テ、公・私二被仕テ糸止事无カリケリ。
【 安倍晴明:玄松子の祭神記 】
