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久米田神社
くめたじんじゃ
福井県坂井市丸岡町下久米田1−1

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式内社 越前國坂井郡 久米多神社 |
福井県坂井市にある。
えちぜん鉄道勝山永平寺線・永平寺口駅の北西3Kmほどの下久米田に鎮座。
九頭龍川にかかる鳴鹿橋を渡り、西へ進むと、
道路に面して鳥居が立っている。
鳥居の脇には「式内久米田神社」と刻まれた社号標が立ち、石が置かれている。
民家と田圃の間の参道を進むと石橋があり、鳥居が立っている
その鳥居の脇には、弥六岩と呼ばれる大きな岩。
新江用水の橋が痛んで、村人が困っていた時
下久米田に住んでいた力持ち・弥六が山奥から大岩を運んで
石橋を架けたという。その大岩を、弥六岩と呼ぶ。
参道階段を上ると、暗い境内。
境内の社殿は、本殿を納めた覆屋のみ。
非常に簡素でシンプルな神社だ。
ひんやりとした空気が心地良い。好みの神社だ。
当社の社号は「久米田」と書いて「クメタ」と読むが
「クメダ」でも良いらしい。
創祀年代は不詳。
高向の里に住んでおられた、応神天皇の五世孫・男大迹王(継体天皇)を擁立し
継体天皇の御即位に助力した豪族・大伴金村大連を祀った神社で
式内社・久米多神社に比定される古社。
一説には、
大久米命の陵墓と伝えられている陵山と呼ばれる尾根筋の中腹に位置し、
九頭龍川扇状地開拓の拠点に鎮座。
周囲には六呂瀬山古墳群などの古墳が散在している場所。
本来は大久米命の後裔が、祖神を祀った神社なのではないかとも思う。
大伴連等の祖・道臣命と久米直等の祖・大久米命は
神武天皇の東征に伴った神々だが、混同される場合があるらしい。
さらに、当地出身の男大迹王と絡めて、変化したのかもしれない。
由緒石碑には、境内から九頭龍扇状地一帯が望めるとあるが、
木々が茂って、良く見えず。
社前 |
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鳥居 ![]() | 参道 ![]() |
鳥居 ![]() | 参道階段 ![]() | 弥六岩 ![]() |
境内 ![]() | 社殿 ![]() |
境内 |
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社殿 ![]() | 社殿 ![]() |
御祭神の大伴金村大連は、皇嗣(あとつぎ)のおられなかった第二十五代武烈 天皇が崩御の後、高向の里(現在の丸岡町)に住まわれていた男大 迹王を擁立され、その王を第二十六代天皇(継体天皇 御在位西暦 五〇七年〜五三一年)に即位させた豪族として知られています。 当社は、天皇御即位の後、再び高向の里を訪ねられた継体天皇が 大伴金村大連の子のお働きに深く感謝され建立されたと伝えられて います。 この由緒について、明治の神社明細帳には、次のように記載され ています。 「旧記之レナシ故ニ由緒不詳。然レドモ古老ノ伝 フル処ニ曰ク武烈天皇後嗣ナカリシニヨリ大伴金村大連議シテ曰ク、 越前国坂井郡高向郷ニ應神天皇(第十五代天皇)五世ノ孫、男大迹尊 御座シマスアリ。性慈仁孝順(生まれつき情け深く親に孝行を尽 くしその意に従順である)、天緒(あまつひつぎ)ヲ承ルヘシト。遂ニ迎エラレテ帝 位(天皇の位)ニ即カセ給フ。後、越前国洪水ニテ居民安セス(九 頭龍川の洪水のために高向郷の人々は安心して生活できなかった) 天皇深ク憂ヒ給ヒテ之ヲ治メ給フ。此ノ時再ヒ高向ニ御滞留在リ。 深ク御趣意アリテ、此社ヲ建立シ給フト云フ。 明治九年六月十日村社ニ被列。」 また、御祭神や氏子の敬神の姿を鳴鹿村誌は、「大伴金村は六代 五十年にわたって朝廷に仕え、大連(西暦五、六世紀のころ大伴、 物部両氏から出て、大臣と並んで朝廷の要職)となり、その間四十 二年に及んだ。社前を通る者古来、鳥居の前では下乗し、汚物は神 前を避けて通った。」と記しています。 当社は、陵山と呼ばれた六呂瀬山の尾根筋中腹に立地し、境内か らは、木の間ごしに九頭龍川扇状地一帯を望むことが出来る景勝の 地であり、扇状地開拓の拠点であったことが伺われます。 −参道由緒石碑より− |
