[HOME]  >  [神社記憶]  >  [関東地方]  >
メニューを表示する 表示用ページ


木曽三社神社
きそさんしゃじんじゃ
群馬県渋川市北橘町下箱田1  Zenrin Data Com Maps display !!


笹龍胆

旧県社

御祭神
須佐之男命 宇気母智神 彦火火出見命 豊玉姫命

群馬県渋川市北橘町にある。
前橋駅の北11Kmほどの下箱田に鎮座。
八木原駅からは利根川を越えて東へ3Kmほどの位置。
言葉では説明しにくいが、利根川の支流・木曽川の近くに境内がある。

境内入口は160号線に面して南東向き。
鳥居をくぐると、「縣社木曽三社神社」と刻まれた社号標が立っている。
参道を進むと下りの階段があり、階段下に広がる神域にちょっと驚く。
境内入口からは想像できない、広くて深い境内。
境内の右手から左手に清水が流れていて、しっとりとした雰囲気。
参拝は11月の晴天の朝で日射しが強く、写真はコントラストが強くなってしまったが
梅雨の時期に参拝すると、本当に美しい緑と水の境内になるのだろう。

階段を下ると、当社の社殿。社殿前の階段下に祓殿。
階段の脇に、右手に御腰掛石という岩がある。当社鎮座ゆかりの石なのだそうだ。
左手にはかなり破損した当社を創建した木曽遺臣・高梨氏の石像。
階段を上ると、入母屋造の拝殿があり、拝殿の扁額には
「木曽三社太神」「瀧之宮」。
当社は箱田明神とも木曽明神とも滝の宮とも称されたらしいが、
境内の右手の1mほどのささやかな滝のことだろうか。

拝殿の幕には木曽義仲の紋である笹竜胆が染められている。

社伝によると、後鳥羽天皇元暦元年(1184)の創祀。
木曽義仲が深く崇敬していた信濃国(長野県)の延喜式内社である筑摩郡の三座
岡田沙田阿礼神社」を、
木曽柏原の城中に勧請していたが、
義仲が滋賀県の粟津で源義経に討たれた後、
その遺臣であった今井・ 高梨・町田・小野沢・萩原・串渕・諸田等が、
この地に勧請して創建したと伝えられている神社。

よって、祭神は須佐之男命(阿礼神社祭神)、
彦火火出見命豊玉姫命(沙田神社祭神)、
宇気母智神(岡田神社祭神)の3系統。

当社の鎮座に関して『平成祭データ』に以下の話が載っている。
木曽義仲の没後、その遺臣らは一時木曽の谷にいたが、
頼朝の詮議が厳しいので木曽は安全な隠れ場所ではなくなった。
この時、木曽氏の信仰していた三社の神社の神官であった高梨南学院という人が、
三夜続けて不思議な夢をみた。
それは早くこの神を東の方の安全な地に遷せよという神託だった。

そこで遺臣らが相談した結果、神体を七重の箱におさめて東国へと旅立つことになった。
和田碓氷の峠を越えて利根川の辺までたどり着いた時、ある平和な村があった。
そこに神をまつろうとすると土地の人が怪しんで「その箱は何だ。」と尋ねると
「只の箱だ。」と答えた。今、その土地を箱田と言う。

しかし神の御告は更に今一度ここを立ち去るようにと下ったので、
また人々は旅に出たが今度は半日にして利根川東岸の山中のある清い泉の所に着いた。
ここで人々は休息したが、その時、御神体の箱をとある石の上に降ろしたところ、
不思議なことに人々が再び出かけようとすると箱は石に固く着いてしまって動かなくなった。
大騒ぎして持ちあげようとしたが無駄だった。
ということでその場所(現社地)に祀り木曽一族の祈願所としたのが当社であるという。

その後は関東管領上杉氏、白井城主長尾氏、歴代の前橋城主の崇敬が厚く、
神田の寄進や社殿の修復等が行なわれたが、
寛政元年(1789)に火災にあい、同6年(1794)に再建。
明治20年代には大修復を経て、明治29年(1896)県社に列せらた。

境内には稲荷大神の他に多くの石祠や石碑が祀られている。
確認したものは恵原山大神、御嶽山大神、武尊山大神、猿田彦太神。
他に芭蕉句碑らしきものもあるが磨滅していて読めなかった。
「明治神社誌料」には境内社として以下が列記されている。
鹿島神社、神明宮、菅原神社、八幡神社、住吉神社、
愛宕神社、早虎稲荷神社、八坂神社、薬王神社、厳島神社、大山祇神社。


社頭

鳥居

参道

境内

木曽氏遺臣之像

御腰掛石

社殿

拝殿

扁額「瀧之宮」「木曽三社太神」

本殿

社殿

境内

御嶽山大神
恵原山大神・武尊山大神


境内社

猿田彦太神

芭蕉句碑?

早虎稲荷大神

未確認

木曽三社神社 所在地:渋川市北橘町下箱田1番地
<由緒>
 元暦元年(1184)、木曽義仲が滋賀県の粟津で源義経に討たれた後、その遺臣であった今井・ 高梨・町田・小野沢・萩原・串渕・諸田等が、義仲が崇敬した信濃国(長野県)の延喜式内社 である筑摩郡の三座「岡田・沙田・阿礼神社」を、この地に勧請して創建したと伝えられるのが 木曽三社神社です。滝の宮・木曽明神とも称されています。
 その後は関東管領上杉氏や、白井城主長尾氏、歴代の前橋城主の崇敬が厚く、神田の寄進や 社殿の修復等がおこなわれました。
 寛政元年(1789)に火災にあい、同6年(1794)に再建、さら明治20年代には大修復をしてい ます。明治29年(1896)には県社に列せられましたが、昭和21年(1946)の法令改正に伴い 社格を改正され、現在は神社本庁の所管となっています。
 境内には本殿(間口1間、奥行1間半)、拝殿(間口3間半、奥行2間)、幣殿(間口1間半、 奥行2間)があり、湧玉の清泉やセキショウ群落を中心とした全域が、群馬県環境保全地域に 指定されています。
<祭神>須佐之男命・彦火火出見命・豊玉姫命・宇気母智神
<例祭>4月15日・10月15日

−境内由緒書−



木曽三社神社 参拝のしおり
当社は、後鳥羽天皇の御代元暦元年(一一八四)の創立と伝えられる。延喜式内信濃筑摩郡の三座、岡田神社、沙田(いさごだ)神社、阿礼神社の三社は、木曽義仲があつく崇敬した神社であるが、元暦元年正月、義仲没落に及んで、その遺臣、今井、高梨、町田、小野沢、萩原、諸田、串淵等が神託を奉じて、この地に遷しまつったものである。
木曽神社の遷宮について次のような伝説がある。
木曽義仲の没後、その遺臣らは一時木曽の谷にいたが、頼朝の詮議が厳しいので、木曽は決して安全な隠れ場所ではなくなった。この時、木曽氏の信仰していた三社の神社の神官であった高梨南学院という人は、三夜続けて不思議な夢をみた。それは早くこの神を東の方の安全な地に遷せよという神託だった。そこで遺臣らが相談した結果、神体を七重の箱におさめて東国へと旅立つことになった。和田碓氷の峠を越えて利根川の辺までたどり着いた時、ある平和な村があった。そこに神をまつろうとすると土地の人が怪しんで「その箱は何だ。」と尋ねると、「只の箱だ。」とのみ答えた。今、その土地を箱田と言う。しかし、神の御告は更に今一度ここを立ち去るようにと下だった。そして、また人々は旅に出たが今度は半日にして利根川東岸の山中のある清い泉の所に着いた。ここで人々は一憩したが、その時、御神体の箱をとある石の上に降ろした。すると不思議なことに人々が再び出かけようとすると箱は石に固く着いてしまって動かなくなった。大騒ぎして持ちあげようとしたが無駄だった。ここにまつられたのが木曽神社である。今でも神社の前に高梨氏の石像と、御腰掛石とがある。遺臣たちはここに土着して四方に広がっていった。
爾来、今日に至るまで木曽一族の祈願所であるは勿論、所縁ある武将の崇敬もあつく、観応年間、管領上杉憲顕社外の田を寄進し、後、上杉謙信は武運長久の誓書を奉り、白井城主長尾氏も又厚く崇敬したという。徳川幕府となっても、領主の尊崇は変わらず、社地の御修復と称して、前橋城主は代々公費を以って営繕をしていたが、寛政元年六月、火災にあった時、領主松平氏は武州川越にあり移封の説もあった為、造営の沙汰も遷延してしまった。よって同六年、氏子信徒相謀って社殿を建築した。
文化七年、前領主酒井氏は播州姫路から重臣を遣わし、鉾一口、及び金若干を献じた。同十年、更に従四位下雅楽頭忠道は自筆の神号額その他を献納した。前橋城主松平氏も又崇敬厚く、入城の当時、たまたま拝殿再建の際であったので金二十両を寄進し、落成式の後、明治三年、従五位大和守直方社参して、弓矢を奉納し、続いて伯爵松平基則は信徒として弦料金若干を献じた。
同二十九年六月、県社に列せられた。
同三十一年九月、貞宮多喜子内親王殿下より幣帛料に掛物一幅を添え、木曽桧七株御下賜。
同三十四年八月、北白川宮能久親王妃殿下、成久王殿下、輝久王殿下及び二荒芳之伯御参拝、幣帛料金二千疋お納め、かつ社頭に若松一対お手植えになった。
同三十五年八月、有栖川宮威仁親王妃慰子殿下、戴仁親王妃実枝子殿下より幣帛料二千疋。
同三十六年、有栖川宮威仁殿下より幣帛料四千疋の御進納があった。
明治三十六年九月、社域に宮城遥拝所設置のことが明治天皇の叡聞に達し御内意を以て黒田待従を御差遣になり、更に三十九年十二月には神饌幣帛料供進指定となった。
大正十三年八月、山階宮菊暦王妃常子殿下御参拝、幣帛料一千疋御納めあり、かつ桧一対をお手植えになった。
昭和十七年六月、大東亜戦争御祈念のため、今上陛下より金二十円也御下賜あらせられた。
戦争終了後、昭和二十一年二月、法令改正により県社の社格改正され、神社本庁の所管となる。

−『平成祭データ』−



【 木曽三社神社 (渋川市)(印刷用ページ) 】

ボーダー




no index