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富士山本宮浅間大社 奥宮
ふじさんほんぐう せんげんたいしゃ おくみや
静岡県富士宮市富士山頂上官有無番地  Zenrin Data Com Maps display !!
富士の嶺に 降りおく雪は六月の 望にけぬれば その夜降りけり

棕櫚の葉

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式内社 駿河國富士郡 淺間神社 名神大
旧官幣大社
駿河國一宮

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御祭神
木花之佐久夜毘賣命
配祀 天津日高日子番能迩迩藝命 大山津見神

富士山山頂にある。
と言っても一番高い場所・剣ヶ峯(3776m)ではなく、
表口(富士宮)登山道の終点だから標高は3700m程度だろうか。

富士山へ登るメジャーな登山道は、
富士宮口・御殿場口・須走口・河口湖口などがあるが
浅間大社奥宮の参道は、南側から登る富士宮口からのルート。

須走口・河口湖口から登るルートの終点には
東北奥宮として奥宮末社である久須志神社が鎮座しており、
御来光を望むなら、こちらのルートでなければ見られない。

今回は、奥宮参拝が目的であること、
登山が嫌いなので最短で登れるルートとして富士宮口から登った。
富士山登山に関しては、他のサイトが詳しいので
ここでは簡単なルート説明のみとする。

まず、富士山スカイラインで新五合目駐車場(2400m)へ。
駐車場から、新六合目(2500m)、新七合目(2780m)
元祖七合目(3010m)、八合目(3250m)、
九合目(3460m)、九合五勺(3590m)の各山小屋を経由して
山頂を目指す。

徳川家康から寄進されたため
八合目から上は、奥宮の境内であり御神域だそうで、
八合目以上の各山小屋から登る道には、鳥居が建っている。

山頂へ到着すると、鳥居の奥に石積みの社殿。
左隣には郵便局がある。
拝殿や本殿の屋根は赤色。
本殿の後方に一つの小高いピークがある。
浅間ヶ岳だろうか。
富士山頂火口の周りには幾つかのピークがあり
各ピークの上には鳥居が立っているようだ。

当社は、全国にある浅間神社の総本社・富士山本宮浅間大社の奥宮にあたる。

祭神は、浅間大社同様、浅間大神(木花之佐久夜毘賣命)を主祭神とし、
天津日高日子番能迩迩藝命大山津見神を相殿に祀る。

登る時は、とにかくリタイアしないことだけを考えていたので
カメラはバッグの中から出していない。
以下の写真は山頂到着以後のものなので、
写真の順番は、上から下へ。
冨士宮口ルートは、登りと下りが同じ道なのだ。


山頂の様子。平日なので登山客は少なめ

奥宮社殿と郵便局

奥宮

奥宮

本殿を横から

火口

本殿と後方の浅間ヶ岳か

奥宮参拝が終われば用は無いので
とっとと下山。
下から見上げる冨士山は美しいが
登山で見る富士山はゴロゴロと転がる溶岩の岩と石だけ。
殺風景な風景なので、とりあえず山小屋の写真でも。


下山道から見上げた山頂部

九号五勺の山小屋

九合目山小屋

八号目山小屋

八合目から上の登山道に鳥居

八合目から見下ろす。駐車場まで見下ろせる。

登りも辛かったが、下りはもっと辛かった。
履き慣れない登山靴で足を傷めたためか、
やや高山病ぎみで、一歩一歩、頭痛でガンガンしたためか。
とにかく、これまで登ったどの山と比べても
楽しいことがなにもなく、辛いだけ。


元祖七合目山小屋

新七合目山小屋

新六合目山小屋

ゆっくり下りすぎて、新六合目に着いた頃には日が沈んでしまった。
西側の山肌の向こうに、沈む夕日の痕跡。空には美しい三日月。


新六合目から見た月

須走口・河口湖口から登るルートの終点にある
東北奥宮・久須志神社へ行くのを忘れた。

カナダから研修に来ていた友人が、昨年の夏休みに富士山に登った。
どのルートで登ったのか聞き忘れたが
御来光の写真から判断すると河口湖ルートだったようだ。
写真には、僕が行き忘れた東北奥宮・久須志神社も写っている。
その写真を借りたので、掲載。
やはり御来光は美しい。

Photo by Matthew Keoshkerian.


多くの人で賑わう登山道

久須志神社周辺

御来光

富士山本宮浅間大社
御祭神
主神木花之佐久夜毘賣命
配祀天津日高日子番能邇々芸命
大山津見神
御由緒
 人皇第七代孝霊天皇の御代、富士山が 噴火し、人民が難散し国内が荒れ果てた ので、第十一代垂仁天皇の御代に至り、 富士の神霊を山足(山麓)の地に鎮祭した。 これが浅間大社の創祀である。第十二代 景行天皇の皇子日本武尊が東征の際、浅 間大神の神助を畏み、山宮の地(現在地の 北方六キロ)に篤く大神を祭られた。 その後、平城天皇の大同元年(八〇六)坂上田村麿が勅命に依り、神霊を山宮より大 宮(現在地)に遷し奉った。以来実に一千百 余年、全国一千三百余社に及ぶ浅間神社 の総本宮として、全国的に篤い崇敬をあ つめている東海最古の名社である。
 古来、朝廷の尊崇極めて篤く、延喜の 制では名神大社に列し、駿河国の一宮と して崇められた。武家時代に入ってから は、源頼朝をはじめ、北条義時、武田信 玄、同勝頼、等の各武将は、それぞれ神 領や神宝を献納して篤く崇敬した。
 特に徳川家康は天下を平定した、奉賛 のため、慶長九年(一六〇四)に本殿以 下の諸社殿を奉建し、更に富士山八合目 以上を社地として寄進した。
 本殿は二層の楼閣をなし、浅間造りと 称し重要文化財に指定されている。
富士山信仰
 霊峰富士山は、古来浅間大神の鎮まり 坐す神体山として、全国の登拝者の最も 尊崇するところである。頂上には奥宮、 久須志神社の二社が鎮坐しているが、共 に浅間神社の奥宮で、八合目以上はその 聖域にして境内地である。
祭礼神事
例祭十一月 四日
流鏑祭五月 五日
御田植祭七月 七日
開山祭七月 七日
閉山祭九月 七日
湧玉池
 神社の東側神苑にある。富士山の雪解 け水が溶岩を浸透し、神立山の山裾から こんこんと湧出している。 湧出量毎秒三・六Kl(約二〇石)、水温は年 間を通じ十三度C。特別天然記念物に指 定されている。この池は古来、富士登拝 者が沐浴潔斎をしたところである。

−境内案内−


富士山本宮浅間大社の栞

 第七代、孝霊天皇の御代富士山が噴火し鳴動常なく人民恐れて逃散し年久しく国中が荒れ果てたので第十一代垂仁天皇は其の三年に浅間大神を山足の地に祭り山霊を鎮められた。これを当浅間大社の起源とする。ついで第十二代景行天皇の御代日本武尊が東夷御征伐の時駿河国に於て賊徒の野火に遇われたが富士浅間大神を祈念して其の災をのがれた給い、その賊を征服するや山宮の地(大宮の北方約6キロ)に於て厚く大神を祭られた。其の後第五十一代平城天皇の大同元年坂上田村麿勅を奉じて現在の大宮の地に壮大な社殿を営み山宮より遷し鎮め奉った。爾来一千百余年全国一千三百余に及ぶ浅間神社の総本社として全国的崇敬をあつめる東海の名社となっている。
 古来朝廷の御尊崇極めて厚く延喜の制には名神大社に列し、駿河国一宮として勅使の奉幣神領の御寄進等にあずかり、武家時代に入るや源頼朝は神領を寄進し、北条義時・足利尊氏同義持等何れも社殿を修営し、武田信玄・同勝頼父子は諸種の宝物を献上し社殿を奉建し、豊臣秀吉も亦神領を寄進した。慶長九年徳川家康は戦国擾乱の鎮静と将軍宣下の奉賽のため本殿・拝殿・楼門その他を奉建し更に同十一年には富士山八合目以上を当社へ寄進した。爾来徳川氏は本社を崇敬すること極めて深く、家光は社領を献じ家綱・綱吉・家治・家斉・家定・家茂等も夫々祈祷料・修理料を寄進した。
 又室町時代に始まった富士登拝は江戸時代に入っていよいよ殷盛を極め以来今日に至っているが、本宮所在の大宮は富士山表口と称せられ関西方面から来る道者(どうじゃ)の登山口たることは勿論、特に本宮を崇敬する関東、東北の道者も此の道を選び、又甲斐、信濃より来る道者も少なくなかった。彼等は社人中特定の道者坊に着いた後本宮に参詣し、更に境内の湧玉池にて斎戒沐浴して登山するのを習いとした。
 明治に及んでは其の四年五月十四日国幣中社に、同二十九年七月八日官幣大社に列せられた。

−『平成祭データ』−



【 富士山本宮浅間大社奥宮(印刷用ページ) 】

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