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豊受大神社
とようけだいじんじゃ
京都府福知山市大江町天田内東平178−2  Zenrin Data Com Maps display !!


巴紋

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式内社 丹後國丹波郡 比沼麻奈爲神社
旧府社

御祭神
豊受大神
相殿
日子番能邇邇芸尊 天児屋根命 天太玉命

京都府福知山市(旧大江町)にある。
北近畿タンゴ鉄道宮福線の大江高校前駅の北、歩いて1Kmほどの天田内に鎮座。

9号線と由良川支流・宮川に挟まれた舟形の小山・舟岡山に境内があり、
9号線に面して参道入口がある。

参道の階段を上ると、砂利の境内。
社殿のある境内には、生木を用いた黒木鳥居をくぐる。
黒木鳥居をくぐり、左手に進むと境内。

境内中央に拝殿があり、後方に茅葺神明造の本殿。
拝殿の左右には、別宮の多賀之宮土之宮が祀られている。

本社社殿を取り巻くように、境内の左右・後方に境内社が並んでいる。

境内左手から、御幸神社、天田神社、蜂須神社、若宮神社、榊森神社、
和幣神社、御釼神社、大若神社、鏡作神社、知恵神社。

右手から、岩崎神社、保養神社、酒造神社、日吉神社、祓戸神社、
椿本神社、姫若神社、榊原神社、南之神社、福徳神社、白鬚神社、
小篠神社、甲之神社、礒之神社、平岡神社、保浪神社、青榊神社、横河神社。

社殿後方には、別宮の月宮風宮に挟まれて、
竈原神社、種木神社、瀧之神社、東羅神社、
金刀比羅神社、蓬戸神社、神南神社、鹿嶋神社、繁昌神社。

上記のように、四社の別宮と、三十七の末社(合計四十一境内社)を確認したが、
『神社名鑑』には、末社四十二社と記されている。
よって、見落としがあったかもしれない。
ただ『日本の神々』には、三十七末社とあるのだが。

また、『神社名鑑』や『神社辞典』には、当社は旧府社とあるが
『日本の神々』には旧村社となっている。
明治期の郷社以上が記載されている『明治神社誌料』には
当社の記載がなく、明治以後に昇格したのかもしれないが・・・
いずれにしろ、当社で確認すれば良かったのだが、忘れてしまった。

『神社名鑑』の、同じく大江町にある「元伊勢皇大神宮」(現皇大神社)の項には、
昭和五年府社に列したとあり、当社も同時期に府社に昇格したのだろう。

創祀年代は崇神天皇の御代。
天照大神が倭国笠縫邑から当地へ還幸の際に創祀されたという。

旧号を与佐宮と称し、御山を比沼の真名井ヶ原と呼ぶ。

伊勢外宮の縁起を伝える
延暦二十三年(804)の『止由気宮儀式帳』によると
伊勢外宮は、丹波国比治真奈井に鎮座する豊受大神を遷座したものとある。

鎌倉時代の『神道五部書』によると
伊勢外宮の御饌都神豊受大神)は、天御中主神国常立神と同神で、
雄略天皇二十一年、倭姫命天照大神の神託があり
丹波国与佐宮に祀られている豊受大神を伊勢山田原に迎えたもの。

享保二十年(1735)の『丹後国加佐郡旧語集』には
当社・豊受宮は「人王三十三代推古女帝二十一丁巳年外宮遷座於伊勢国」とある。

よって当社が、伊勢外宮の元社であると考えられている。

伊勢に遷宮の後は元伊勢外宮大神宮と称し、豊受大神を奉斎。
地方有数の名社とされ、遠近よりの参詣も多かった。

また、明暦二年京極高国は将軍綱吉の病気回復を祈願し、
永井・阿倍・奥平・青山氏ら藩主の社参・代参や寄進等が相ついだ。

なお『丹後風土記』には、
当社を丹後国丹波郡の式内社・比沼麻奈爲神社とする説が載っている。

さらに、『加佐郡誌』には、雄略天皇二十二年、
丹後国丹波郡の比沼麻奈爲神社を伊勢へ遷座する時、
当地・舟岡山にしばらく鎮座したとあり、当社をその跡地とする説もあるようだ。

さらに、宝暦十一年(1761)の『丹後州宮津府志』には
用明天皇の第三皇子・麻呂子親王が鬼退治の際に
内宮とともに当地に勧請した社であるとし、
元伊勢ではないとする説もあるようだ。

参拝時には当社の神紋は確認できなかったが、
『神社名鑑』には巴紋とあるので、巴紋を記載しておく。

これも、参拝時にお聞きすれば良かったのだが忘れてしまった。

参拝は、炎天下の八月。
夏の日射しで、写真のコントラストが強いため、
画像を小さくすると、何が写っているのか判断しにくい。
よって不本意だが、ちょっと大きめの写真も掲載しておく。


参道階段

参道

黒木鳥居

境内社殿、左右に多賀之宮土之宮

本殿

境内左の境内社
御幸、天田、蜂須、若宮
榊森、和幣、御釼、大若
鏡作、知恵

境内右の境内社
横河、青榊、保浪、平岡、礒、甲
小篠、白鬚、福徳、南、榊原、姫若
椿本、祓戸、日吉、酒造、保養、岩崎

境内後方の境内社
月宮、竈原、種木、瀧之、東羅、金刀比羅、蓬戸、神南、鹿嶋、繁昌、風宮

境内

豊受大神社御由緒
当社は、豊受大神をお祀りする神社で、正式社名は豊受大神社であるが、一般にその上に元伊勢外宮を冠してお呼びしている。大神は人類生存上一日も欠くことの出来ない衣食住の三大元を始め広く産業の守護神であり、崇敬者に篤き御加護を垂れさせ、給う大神に座します。社伝によれば、元伊勢内宮皇大神社に奉斉する皇祖天照大御神は人皇第十代崇神天皇三十九年に「別に大宮地を求めて鎮め祭れ」と御神勅を下されたので、それまで祀られていた大和国笠縫邑より当地(大江町字内宮)に遷幸されたのであるが、此の時同時に豊受大神を当船岡山に合せ祀られたのが当社の創祀であり、いま(平成五年.1993年)から2051年前のことである。
境内は一名比沼の真名井ケ原と称へ孤立した一丘陵を形成し御神霊の鎮まり座すに相応しい神秘な霊域で一万余坪の御山である。
天照皇大神は四年間御鎮座になりましたが、さらに大宮地を求めて当地を出御され第十一代垂仁天皇二十五年に現在の伊勢の五十鈴川上を悠久の大宮地と崇められ御鎮座になった。しかし乍ら豊受大神は御鎮座以来移動がなくこの真名井ケ原に鎮まり給いて万民を恵み守護されたきた。ところが五百三十六年後の第二十一代雄略天皇二十二年に皇祖天照大神の御神勅が天皇に下った。その御神勅は「われすでに五十川上に鎮り居ると雖も一人にては楽しからず神餅をも安くきてしめすこと能はずと宣らして丹波の比沼の真名井に坐せる豊受大神を吾がもとに呼び寄せよ」との御告げであったので、直ちに伊勢国度会の山田ケ原に外宮を建てられ、豊受大神を御遷座になったのである。今から数えて1513年のことである。しかしながら豊受大神の御神徳を仰ぎ慕う遠近の崇敬者は引き続き大神の御分霊を奉斎して元伊勢外宮などと尊称し現在に及んでいる。

−『平成祭データ』−



【 豊受大神社 (元伊勢外宮)(印刷用ページ) 】

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