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村岳神社
むらおかじんじゃ
京都府京丹後市久美浜町奥馬地村岡201  Zenrin Data Com Maps display !!

式内社 丹後國熊野郡 村岳神社
旧村社

御祭神
思兼神 相殿 倉稻魂命 武甕槌命

京都府京丹後市にある。
久美浜駅の南2Kmほどの奥馬地に鎮座。
久美谷川に沿って南下し、
北近畿タンゴ鉄道宮津線と交差する場所から少し東へ入った場所。

奥馬地の集落の中に境内があり、境内入口は西向き。
石積み中に砂地の境内。
数段の階段を登ると鳥居が立ち、
右手に「式内村社 村岳神社」と刻まれた社号標。
「村岳」と書いて「むらおか」と読む。

鳥居をくぐった境内の奥に、拝殿があり
拝殿の後方、少し離れて、本殿を納めた覆屋。
覆屋の中には、本殿と境内社の小祠がある。
ひょっとすると、この2つの祠は
境内社ではなく、相殿の神を祀ったものかもしれない。

参拝は、五月の連休。
兵庫県北部を旅した最終日。
兵庫から、日本海沿いに長野へ戻る途中。
朝早い参拝で、集落内はひっそりとして
少し朝靄が漂っていて、清清しい空気の中。

創祀年代は不詳。

伝説によると、村岳の神は、太刀宮の臣下。
太刀宮(現神谷神社)の社地選定を命じられたという。

ところが、村岳の神は良地を秘して
別の地(当社の元地)を上申した。

このことが露見し、怒った太刀宮の神は剣を抜いて村岳の神を追った。
石仏(イシボトケ)の大石に隠れた村岳の神を斬ろうとしたが
誤って大石を断ち割った。
怖れた村岳の神は、大根を下物として和睦の宴を開き和解した。

『平成祭データ』では、この大石は神谷神社境内に
剣岩として保存されているとあるが、
当社境内の案内板によれば、
平成六年の土地改良事業により
イシボトケから、当社境内に移されたとある。

境内には、二つに割れた石があるが
数十cm程度の大きさで、人が隠れるほどの大石ではない。

式内社・村岳神社に比定されている古社。

似たような伝承が、丹後の隣り、但馬(豊岡市)の葦田神社にも残っている。
話の筋は同じだが、葦田神社の神が騙したのは天日槍であり、
石だけでなく、葦田神社の神の足も傷つけられている。

境内には、剣岩のほかに祠が一つあるが、詳細はわからない。


境内

境内と拝殿

本殿覆屋と境内社

覆屋内の本殿と境内社

剣岩

剣岩

石仏の伝説 熊野郡誌より
 伝説によるに村岳神は太刀宮の臣下にして、 四道将軍旦波道主命山陰巡見に際し、前途の 武運を祈らんが為め、出雲国なる八千矛神を 勧請し給ふ。此の時臣下に命じ社地を選定せ しめらる。村岳神其の良地を祕す。依て神谷 に社地を定め給ふ。後、此の事露見し、太刀 宮憤り剣を抜いて追ふ。臣の神逃れて小字「 イシボトケ」に至り、大石の陰に隠る。太刀 宮斬らんとして誤て石を斬る石分れて二とな る。臣和を乞ふ両神大根を下物として和睦の 宴を開かる。其の地を「ナカラガヒ」と言ふ。 蓋し「仲直り」の意ならん。
以下略

 追記、平成六年当区の土地改良事業により 馬地谷小字「イシボトケ」より、村岳神社境 内にこの石を移したものである。

−境内案内板より−



当社は延喜式内社で字奥馬地に鎮座する古社である。古書によると村岳神は太刀宮の臣下で、社地撰定を命じられる、良地有るもこの事を秘し復命するも、のち露見し太刀宮憤り剣を抜いて追う。村岳神逃れて小字石仏の大石の影に隠れ、太刀宮誤って大石を切る。村岳神和を願い、両神大根を下物として和睦の宴を開く。この地をナガラガイと言い伝える。以後、神谷太刀宮の例祭りに奥馬地より大根を奉納するを例とする。太刀宮境内地にこの大石を「剣岩」として保存し事績を伝えている。

−『平成祭データ』−



【 村岳神社 (久美浜町)(印刷用ページ) 】

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