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志貴御縣坐神社
しきのみあかたにますじんじゃ
奈良県桜井市金屋896
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桜井市金屋、三輪山の麓、天理教大教会の東にある。
目立たない場所にあるが、山辺から長谷へ向かう場所。
古代では重要な場所だったのかもしれない。
参道に社号標が立っていたが
「式内大社志貴」までしか見えず、下部は埋まっていた。
崇神天皇の皇居(磯城瑞籬宮)跡とも云われる土地だ。
創祀年代は不詳。
式内社・志貴御縣坐神社に比定されている古社。
大和には、幾つかの「御県に坐す神」が祀られている。
延喜式では、高市、葛木、十市、志貴、山辺、曽布の六社。
その中の一つ。
祭神は、神社明細帳では大己貴神になっているが、
志貴連の祖神である天津饒速日命とする説などがある。
境内右手の垣の中には、磐座があり、
二つの境内社を確認したが、詳細は不明。
春日・琴平・厳島などがあるらしいのだが。
参道入口 | 境内入口 |
拝殿 | 本殿 |
磐座 |
境内社 | 境内社 | 埋まった社号標 |
六御県命
『延喜式祝詞』の祈年祭・月次祭に「御県に坐す皇神等の前に白さく、高市、葛木、十市、志貴、山辺、曽布と御名をば白して、此の六つの御県に生ひ出づる甘菜・辛菜を持ち参り来て、皇御孫の命の長御膳の遠御膳と聞こし食すが故に、皇御孫の命のうづの幣帛を称へ辞竟へ奉らくと宣ふ」とあり、『延喜式神名帳』に 葛木御県神社と十市・志貴・山辺・添の御県坐神社は大社に、高市御県神社は名神大社に列し、祈年・月次・新嘗の官幣に預かり、祝詞の六御県の中にない久米御県神社もみえる。これは後に追加されたもので、貞観式に登載されたと考えられる。神階は『三代実録』貞観元年(859)に、六御県神に従五位上の昇叙がみえる。▼志貴御県坐神社 奈良県桜井市金屋西ノ垣内。旧村社。天津饒速日命を祀る。『新抄格勅符抄』に「志貴御県神十二戸」とある。例祭九月一七日。 −『神社辞典』− 金屋集落の北西山手に鎮座。旧村社。祭神は 大己貴神(神社明紬帳)・御県の霊(大和志料)のほ か、天津饒速日命などの説がある。由緒はつま ぴらかでないが、拝殿右には原始信仰を物語る 磐座があり、境内は崇神天皇の「磯城瑞籬宮」推 定地とされるなど、鎮座の古さをしのばせる。 俗に「シキノ宮」と称し、大和六御県神(「延喜式」 祝詞)の一とされる。天平二年(七三○)「志癸御県」 の神戸に城上郡内で租穀一千三五一束八把を定 め、うち四束を祭神料とした(「大倭国正税帳」正 倉院文書)。大同元年(八○六)神封二戸をあてら れ(新抄格勅符抄)、天安三年(八五九)一月二七日 に従五位下より従五位上に昇叙された(三代実録)。 「延喜式」神名帳に城上郡「志貴御県坐神社大、月次 新嘗」とみえる。文明六年(一四七四)の宿院会米帳 (大宮家文書)に「七升定地子(中略)シキノミヤノ四 郎」とあり、シキノミヤは当社のことと考えら れる。「日本書紀」神武天皇二年二月二日条に、 弟磯城(名は黒速)を磯城県主としたことがみえ、 磯城県主は当社付近を中心として、のちの城上・ 城下郡に勢力をもち、大和朝廷と独自の婚姻関 係を結んだ古代豪族であった。天武一二年に連 となり、「新撰姓氏録」大和国神別に志貴連は神 饒速日命の孫日子湯支命の後裔とする。当社は この名族によって奉斎されたものと推定される。 ちなみに桜井市初瀬の与喜山のヨキは、湯支命 のユキがなまったものと考え、式内社の志貴御 県坐神社を初瀬の与喜天満神社にあてる説もあ る(皮会延経「神名帳考証」)。 −『大和・紀伊 寺院神社大事典』− |
【 志貴御県坐神社 志貴御縣坐神社(印刷用ページ) 】