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酒列磯前神社
さかつらいそさきじんじゃ
茨城県ひたちなか市磯崎町4607  Zenrin Data Com Maps display !!


十六菊菱

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式内社 常陸國那賀郡 酒烈礒前薬師菩薩神社 名神大
旧國幣中社

御祭神
少彦名命 大己貴命

茨城県ひたちなか市にある。
茨城交通湊線の終点・阿字ケ浦駅の東1Kmの磯崎に鎮座。
参道入口は西向きで、300mほどの長い参道が東へ延びる。
参道は鬱蒼として、昼でも暗いが、
真直ぐの参道を歩くと、参道の先、
ポッカリと空いた空間に鳥居と社殿が浮かんで見える。
なかなかドラマティックな光景だ。

境内入口の鳥居をくぐると、
左手に、水戸斉昭公の腰掛けた石がある。
参道正面に拝殿があり、拝殿の後方、垣の中に本殿。

参拝当日は、境内に菊が展示されており、
テントが張られていたので撮影に少し苦労した。

当社の創祀に関する由来は、大洗磯前神社と同じ。
当社に少彦名命を祀り、大洗磯前神社には大己貴命を祀り、
ともに、天安元年(857)八月七日、官社となった。

建久二年、源頼朝が筑波山に詣でた折、
当社の神威を崇めて、茂木四郎を遣わし、神馬を奉献。
那珂郡以東、久慈郡以西の百二十町の神地を寄進した。

『古今類聚常陸国誌』には、「在那珂郡今亡」とあり、
江戸時代より前には既に、社殿は無かったという。
寛文三年(1663)、村人が古塚を発見し、石棺の中に
種々の器物や甲冑・旗竿などが納められ、
周囲に陶器が埋められていたが、これを磯前明神の墟とされた。
一説には、周囲に埋められていた陶器は、
酒瓶を列ねたものであるという。

この古社地は、現社地の西方の海に望んだ場所(鳥居の辺り)であり、
元弘二年、佐竹貞義が社殿を造営したが、乱世で消失。

光圀公が当社に詣でた当時、神籬形式の祭祀であったものを
元禄十五年、水戸城主源綱條が、先君光圀公の意志を次いで、
社殿を造営し、遷宮祭が営まれ、現社地に祀ったという。

「酒列」の社名の由来は諸説あり、
祭神・少彦名命が酒造の神であるところから、
酒瓶を列ねて祀ったからといい、
また、酒列は「サカナミ」とも読み、逆浪の義であるといい、
また、当社の東の海辺に列なる岩石群が南に約45度傾斜しているが、
その一部が反対に北へ傾斜しているから「逆列」の地名となったとも。

境内の左手に境内社が並んでいる。
まず、稲荷の跡と思われるもの、
天満宮、事比羅神社、冨士神社、水神社が南向き。
境内の奥、本殿と並ぶ位置に、西向きの酒列鎮霊社。

境内入口には、カワラケ祈願と書かれたものがあった。
斜めに設置された、ドラム缶状の筒の中に鉦がぶら下がっているもの。
社務所でカワラケを購入し、名前と祈願を書き投げ入れ、
見事に割れれば。願いが叶うというもの。
筒の中を覗こうと、投擲台(というのかな?)に乗ると、
台が下へ下がって、スイッチが入り、
どこからか神楽が鳴り出す仕組み。
はじめ、自分が踏んでいる台がスイッチとは気づかずに、
不思議に思って、何度も踏んで確かめてみた。

境内の案内石碑には、菊の紋が付けられていたが、
賽銭箱には、菱形の菊。
どちらが正しいというのではなく、
菊であれば、どちらも神紋なのかもしれない。
ちなみに『官國幣社例祭之由来と神紋』には、
神紋は特になし、と書かれており、
『神社名鑑』には、菊花と書かれている。


参道入口

参道

境内入口

境内

本殿

社殿

水戸斉昭公お腰かけの石

稲荷社跡

天満宮

事比羅神社、冨士神社、水神社

鎮霊社

カワラケ祈願

神紋

 酒列磯前神社御由緒記
主祭神 少彦名命恵美須さま
配祀神 大名持命大黒さま

少彦名命は高皇産靈神の御子神にして医藥の術、酒造の術の祖神また 海上安全大漁万足の海の神なり。
大名持命は大國主命とも稱し五穀豊穣、商賣繁昌の神にしてまた 縁むすびの神なり。御二柱の神は共に力を合わせ國土開拓民生の安定を築き 「神人和樂」福を授くる神にして古より広く庶民に親しまれ敬愛された。
抑、御祭神は古事記・日本書紀にも記録明らかにして、平安初期(約一一〇〇年前) 「文徳天皇実録」によれば天安元年(約一一三〇年前)に「官社」となり、同年八月には 「藥師菩薩明神」の尊号、延喜の制には「明神大社」に列せらる。
天平文化を誇る奈良の平城宮との交流も盛んなりし事等、史実に顕著にして 著名なるお社として全國的な尊崇をあつめり。
更に菅原道真公、本居宣長、平田篤胤等の国学者が学問の神として崇敬せり。
本神社の創祀の地は現在地の西方海に臨みし台地に鎮座されており、建久二年(約九〇〇年前) 源頼朝は神馬丗三頭神領地寄進社殿修繕を行へり。応永廿九年(約六〇〇年前) 水戸城主初代江戸道房より次いで弘治元年(約四三〇年前)忠道本殿其の他改造せり 天正八年(約四〇五年前)六代重道に至る数百年間 江戸氏が修繕に当れり。 元和二年(約三七〇年前)守護佐竹貞義神田寄進社殿修理せり。元禄十五年(約三〇〇年前) 水戸藩主二代徳川光圀公の遺志を継承せる三代綱條公旧社地より現在地にさだめ 境内の整備社殿大改築をなし、御遷宮奉安の儀を行へり。
現社殿の建築は元禄時の彫刻を軒廻り部分を再使用、昭和九年国費により 改築せるものなり。この時畏くも天皇陛下より金一封御下賜あらせられたり。
明治十八年より終戦まで毎年三回の大祭に皇室国家より幣帛料が供進されたり。
洋上より昇る朝日に映ゆる神域約二万坪、参道本殿背後に生殖せる暖帯林は 誠に人心を厳粛の極に至らしめ自然林に指定されり、東南方磯づたいに展開せる 白亜紀の岩石群は古より神聖視され清浄石と呼ばれておれり。
北方遠く連なる海辺は白砂青松にして絶景なり「東洋のナポリ」と稱するに値せり。
萬葉時代より昭和初期まで旧制四十八ヶ村の各鎮守の神輿がそれゞの氏子により 「ヤンサコラサ」の掛声も勇ましく当神社に神幸され祭典と同時に渚二里八丁を 疾駆せる勇壮厳粛なる競馬の伝統御神事は往時を偲ぶものあり。
恰も本年は当神社が「國幣中社」に列格せし満百年の意義深き年なり。 来る廿一世紀国際化時代へ飛躍の秋、近隣一帯が北関東地域発展の 重要な拠点となる流通港、常陸海辺公園等々「海と緑と人間との」調和した 雄大にして豊な活力のある海洋文化都市建設構想を目指す輝かしき曙光は 御祭神が國土開拓殖産の御神徳灼かなる具現哉と一人感慨深きもの也。

−境内石碑文より−



【 酒列磯前神社(印刷用ページ) 】

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