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大洗磯前神社
おおあらいいそさきじんじゃ
茨城県東茨城郡大洗町磯浜町字大洗下6890

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式内社 常陸國鹿嶋郡 大洗礒前薬師菩薩(明)神社 名神大 |
茨城県大洗町にある。
大洗駅の東2Kmほど、鹿島灘に面した丘の上に鎮座。
大洗ホテル近くの交差点に、大きな一之鳥居が立ち、
参道入口がある。
一之鳥居から海沿いの道を北上すると、
車道に面して、これも大きな二之鳥居。
二之鳥居をくぐって、参道の階段を上ると境内になる。
二之鳥居から階段を上らず、車道の向かいの小道を
海側へ入ると、大洗海岸に出るが、
海岸の磯の小島に神磯鳥居が立っている。
この小島は、当社祭神の降臨した磐座らしく、当社のシンボル。
参拝は土曜日の午前中だが、すでに日は高く、
日の出の頃には、昇る朝日を背景に、
さぞ美しいシルエットになるだろうと、想像し少し残念。
晴れた月夜には、海に映る月と鳥居のシルエットが、また美しいはず。
徳川光圀公が、当社に参拝した折に詠った歌。
荒磯の岩にくだけて散る月を一つになしてかへる波かな
波の高い日、穏やかな日、雨の日、晴れの日、雪の日、
夏の青い海、冬の黒い海など、
一年中眺めていても飽きない景観かもしれない。
交差点の一之鳥居 ![]() | 境内入口の二之鳥居 ![]() |
神磯の鳥居 |
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当日は、酒列磯前神社方向から向かったため、
北から南下して当社へ来た。
那珂川に架かる海門橋を越えると、アクアワールドがあり、
大洗ゴルフ倶楽部を過ぎると、裏の参道入口がある。
裏参道を車で上ると、境内右手に到着する。
二之鳥居から急な階段を上ると、正面に神門。
神門をくぐると、拝殿があるが、
拝殿前、左右には狛犬ではなく、カエルの像が座っていて面白い。
拝殿の後方には、垣に囲まれて本殿がある。
一間社流造の本殿は、茅葺の屋根が大きく華奢だが、
古風な感じで、なかなか良い感じ。
お茶でも一服欲しくなる。
当社の創祀に関して、文徳実録には以下のように記載されている。
斎衡三年(856)十二月、
ある製塩者が、夜半に海上を見ると、光り輝くものがあった。
翌日、海辺へ出てみると、一尺あまりの怪しい2つの石があり、
更に翌日には、その2つの石の周りに、
20個あまりの小石が、左右に侍座しているように見え、
2つの怪石の形は、沙門(修行僧)のような姿をしていたという。
その時、神が人に憑いて、
「我は大己貴・少彦名なり、昔、この国を造り、東海へ去っていたが、
この度、民を救わんとして、ここへ来たのである」と託宣があった。
よって、本社に大己貴命を祀り、酒列磯前社に少彦名命を祀ったという。
さらに、文徳実録に、天安元年(857)八月七日、
当社が官社に列したとあり、
当社の創祀は、856年〜857年であることがわかる。
当社は、式内社・大洗礒前薬師菩薩明神社だが、
珍しく菩薩という名称がついているのは、
沙門姿の怪石に由来すると考えられている。
神門 ![]() | 神門から拝殿 ![]() |
拝殿 ![]() | 蛙 ![]() |
本殿 |
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当社の神紋に関して。
『官國幣社例祭之由来との神紋』には、特になしとあるが、
『神社名鑑』には、三つ巴と記載され、当社公式サイトには菊紋が載っている。
神殿の屋根や、神門の幕には、たしかに菊紋が付けられているが、
賽銭箱には三つ巴紋。
菊紋や三つ巴は一般的な紋章なので、
特になしとするのが良いのかもしれないが、
とりあえず、賽銭箱の三つ巴を載せておいた。
社殿の左右に、三つずつの末社が祀られている。
境内右手、本殿そばから、
大神宮(天照皇大神)、静神社(建葉槌命 手力雄命 高皇産霊尊 思兼神)
水天宮(天御中主神 安徳天皇 建礼門院二位尼)。
境内左手、本殿そばから、
八幡宮(玉依比賣命 大帯姫命 応神天皇)、
水神社(罔象女命)、大杉神社(大物主命)。
他の境内社には、裏参道に、御嶽神社(国常立命 大己貴命 少比古名命)。
二之鳥居横に、清良神社(小幡宥圓)。
二之鳥居の階段が急なので、ほとんどの参拝客は、
一之鳥居側から境内に入るのだろうが、
僕は裏参道から参拝し、階段を降りて神磯鳥居まで歩いたので、
多分、他にも境内社があるのだろうが、表参道周辺は見ていない。
『式内社調査報告』には、他の境内社として、
烏帽子厳社(烏帽子厳神)、茶釜稲荷神社(倉稲魂命)、
與利幾神社(建御名方命)が記されている。
本殿左の三末社 ![]() | 本殿右の三末社 ![]() |
本殿 |
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階段下大鳥居そばの清良神社 ![]() | 境内右手外の御嶽神社 ![]() |
なんだろ、御手洗池かな? |
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大洗磯前神社案内記 御由緒
文徳実録の記録によれば齊衡三年常陸國鹿島郡大洗の里に御出現になり給いし時、里人の一人に神がかりして人々に教えられました。「我はこれ大己貴、少彦名神也。昔この國を造り常世の國に去ったが、東國の人々の難儀を救う為に再びこの地に帰ってきた」と仰せられました。当時の記録によると度々地震が発生し人心動揺し、國内が乱れて居りました大國主神はこうした混乱を鎮め平和な國土を築く為に後臨されたのです。即ち大洗磯前神社は御創立の当初から関東一円の総守護神として、大國主神御自ら此の大洗の地を選び御鎮座になったのであります。朝廷は國司の上奏に基づき翌天安元年八月七日官社に列せられ、次いで十月十五日には「大洗磯前薬師菩薩名神」の称号を賜りました当時國司の上奏から八か月で此の待遇に預ると云う事は破格の事でありまして、如何に御神徳が顕著であったかを知る事とが出来ます。 延喜の制当社を名神大社に列せられ東國の大社として祀田千石を領し祠宇宏壮にして、遠近の信仰を集めて栄えた事は現存する元禄御造営以前の御本殿格子等からも察せられます残念な事に永禄中、小田氏治の兵乱に際しその難を蒙り、御社殿以下の諸建造物は悉く焼失し爾来一小社に辛うじて祭祀を続けて来ました。 水戸藩主徳川光圀公は由緒深き名社の荒廢を見るに忍びず、元禄三年御造営の工を起し、次いで綱條公に至り本殿、拝殿、神門に至るまで建造の工を竣え、名大社にふさわしき輪奐の美を整えました。 爾来歴代の水戸藩主は厚く当社を尊崇し幕末に至りました。 現存する社殿、神門等は当時の建造物で社殿の彫刻と共に徳川初期を偲ぶに足る文化財として貴重なものです。 明治新政府が、神社制度を定めらるるや、明治七年九月県社に指定せられ、明治十八年四月國幣中社に列せられましたが大東亜戦争終熄を機に、神社は未曾有の変革を余儀なくせられ、政教分離の名の下に宗教法人としてのみその存続を容認せられました。 神社が國家の宗祀たりし時代より激動の時代を経て現代に至るまで、当社は人々の厚き信仰に支えられて発展して参りました。そして悠久の昔より永遠の未来にわたり國家と共に栄えて行く事でしょう。 −『平成祭データ』− |
