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土師神社
どしじんじゃ
群馬県藤岡市本郷164

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旧郷社 |
群馬県藤岡市にある。
八高線・群馬藤岡駅の南3Kmほどの本郷に鎮座。
当地の東には、埼玉県との県境の神流川が流れている。
境内入口は南側。
朱の両部鳥居に黒い扁額が「土師神社」とありシンプルでカッコ良い。
鳥居をくぐると100mほどは有りそうな砂の参道。
馬場になっているようで、流鏑馬などの神事が行われるらしい。
参道を進むと、右手の広場に塚のような伏せ鉢状の相撲辻がある。
屋外相撲壇(土俵)で、日本三辻の一つらしい。
あとの二つは大阪・住吉大社と能登・羽咋神社のもの。
住吉大社境内に土俵があるがそれだろうか。残念ながら写真をとってない。
羽咋神社の土俵は、少し南にある唐戸山(南中央町)にあるが見ていない。
参道を進むと参道左手に手水舎があり、
正面に割拝殿のような建物。左手に神楽殿。
割拝殿を進むと、当社の社殿。
拝殿は向拝付き入母屋造。拝殿後の垣の中に流造の本殿がある。
入口の鳥居同様、拝殿も本殿も赤を基調として黒い柱や屋根が美しい。
拝殿には奉納された相撲額が掲げられている。
参拝は秋、十月の中旬の日の午後。
太陽が西に傾いて、静かな境内だった。
通常、土師は「はじ」と読むが、当社では「どし」らしい。
創祀年代は不詳。
『上野国神名帳』に「正五位上 土師明神」とある古社。
祭神は天穂日命十四世の孫で土師部の祖・野見宿禰。
菅原道真の遠祖にあたる人物で相撲の元祖。
『日本書紀』垂仁天皇七年秋七月、
当麻蹴速が天下一の力持ちだという噂を聞いた天皇は
挑戦者として出雲から野見宿禰を呼びよせて戦わせたところ
見事に野見宿禰が勝利し、当麻蹴速の土地を与えられて都にとどまった。
また、皇后・日葉酢姫命が薨じた時、
当時は殉死する者が多かったが天皇はこれを大そう哀しみ、
野見宿禰が埴土を採って物象を造り殉死に代えることを進言し、
出雲から土部百人を呼んで土の人形や馬を作らせ、これを埴輪と呼んだ。
その功績により、土部の職に任じられ、土部臣の姓を賜った。
鎮座地の本郷は、『和名抄』の「土師郷」に比定される土地であり
当社の近くには埴輪窯址があることから、
当地に野見宿禰を祖とする土師部の集団が居住していたと考えられている。
本殿の屋根に三つ巴紋が付けられていたが、
当社の神紋かどうかわからない。
社頭鳥居 ![]() | 参道(馬場) ![]() |
境内 |
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神楽殿 ![]() | 割拝殿 ![]() |
社殿 |
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本殿 ![]() | 拝殿 ![]() |
境内の土俵、土師の辻 |
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ずらっと並ぶ石祠 ![]() | 本殿後方に石祠 ![]() |
土師の辻
「日本三辻の一」と称される。他の 二辻は摂津国(大阪)住吉神社と能登 国(石川)羽咋神社である。 明治以降は使用されていないが、そ れ以前は出世力士が披露相撲を行うの が例で勧請相撲が奉納されたが、幕内 力士でなければ相撲壇にあがれなかっ た。 −境内案内− |
当社の北200mほどの位置に、国指定史跡の本郷埴輪窯址がある。
案内によると、昭和十九年に発掘調査された埴輪窯で、
人物や馬、家などの埴輪が出土しているらしい。
本郷埴輪窯址 |
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本郷埴輪窯址内部 |
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国指定史跡 本郷埴輪窯址
埴輪窯は登窯で、長さ五・五メート ル、幅一・八メートルの大きさである。 中から人物、馬、家、太刀、矛、盾な どの埴輪が出土している。 昭和十九年十一月十三日、史跡とし て文部大臣より指定。 −案内板− |
