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粟谷神社
あわのやじんじゃ
栃木県足利市粟谷町1149

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栃木県足利市にある。
両毛線・足利駅の北西10Kmほどの粟谷町にある。
67号線を北西に7Kmほど進み、219号線に入って北上。
粟谷町に入って、219号線から北へ入った場所だが、
言葉では説明しにくい場所に境内がある。
道路脇に駐車スペースがあり、そこが境内入口。
「粟谷神社」と刻まれた扁額のある鳥居をくぐり、
参道階段を上って行くと、新しい社殿。
拝殿の後方、階段の上に黒くて渋い本殿覆屋がある。
覆屋の扉が施錠されてなかったので中に入って参拝。
中には朱塗りの美しい流造の本殿がある。
本殿の左右に、境内社の祠があるが詳細は不明。
本殿覆屋の右手には、生駒神・日光神・浅間神の祠と
幾つかの石祠が並んでいるが、こちらも詳細は不明。
本殿覆屋の左手に新しい社殿があり
扁額には「機神宮」とある。
栲機千々姫命を祀る境内社で、
内部には小さな石祠が祀られている。
粟谷神社の創祀年代や由緒は不詳。
本殿覆屋横の機神宮には、
足利織物の祖・金井繁之丞命が合祀されているらしい。
江戸時代、当地方は農地少なく養蚕の副業で生活を維持していた。
その後、京都西陣より機織技術が導入され、
高級織物が生産できるようになった。
宝暦八年(1758)に生まれた金井繁之丞は、
織物技術で、機屋仲間からも認められる名人になり、
天明七年(1787)、仲間と相談して粟谷神社境内に
「機神宮」の石祠を建てた。
その後、金井繁之丞は京都西陣より紋織の技法を学び、
美術品ともいえる織物技術を完成させ名声を得た。
幕府から東海道の景色を織るように命じられ、
繁之丞五十三次を見事に完成された。
また、模様玉川・お召ちりまん・小緞子・二丁緞子など
数々の織物技術を発明し、産地の発展に貢献したという。
社頭 |
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参道 ![]() | 階段上に拝殿 ![]() |
境内社殿 拝殿後方の階段上に本殿覆屋 |
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本殿覆屋 ![]() | 本殿 ![]() |
本殿左の境内社 ![]() | 本殿右の境内社 ![]() |
機神宮と 本殿覆屋 ![]() | 本殿覆屋と 生駒神・日光神・浅間神 ![]() |
機神宮扁額 ![]() | 機神宮内部の石祠 ![]() |
当社から西へ入って行くと、
足利市重要文化財の「金井繁之丞の石塔」がある。
案内板には、80mとあるが50mほどの場所。
車道脇に、小さな階段があり、階段を上るとある。
金井繁之丞が生前に建てた石塔だが、
死後は、金井繁之丞の墓塔となっている。
石塔の奥に進むと、金井家のものらしき墓が数基立っている。
金井繁之丞の石塔入口 ![]() | 金井繁之丞の石塔 ![]() |
金井繁之丞の石塔 |
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足利市重要文化財(考古資料) 金井繁之丞の石塔 一基
総高 一三〇cm 塔身 七二cm 江戸時代三段に積み上げた基礎上に、頭部を方錘形にした方柱形状 の塔身を立てる。塔身には、次のような陰刻銘が刻まれている。 (正面) 授明 機 巧 院 錦 織 老 翁 居 士 密 華 院 貞 考 妙 操 大 姉 文政十二年丑五月二十六日 (側面) 極楽へ行きて曼荼羅又織らん 菩薩に蓮の糸をとらせて 罪科も死せばきゆるに碑をたてて 浮世に恥を残すかなしさ 文政元年五月旦日 逆修自建立 錦織口音高 本塔は、文政元年(一八一八)に金井繁之丞が逆修塔として 自ら建てたものであり、文政十二年(一八二九)に没した後、 墓塔とされた。「機巧院錦織老翁居士」が繁之丞の法名である。 金井繁之丞は、京都の紋工から伝授された紋織技術に工夫 を重ね、「模様紋織」を創案し高い評価を受けた。また、自己 の考案した技術を広く教え普及した。このことから「足利紋織の祖」 と呼ばれる。 昭和五十七年六月二十三日 指定 −案内板より− |
