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日枝神社
ひえじんじゃ
東京都千代田区永田町2−10−5
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東京都千代田区永田町にある。
国会議事堂の西250m。
営団地下鉄南北線溜池山王駅の近くの丘に鎮座。
境内は東向きで、表参道も東側にある。
境内入口には山王鳥居が立ち、階段を登ると神門。
この参道の階段は山王男坂、キャピタル東急側の緩やかな坂を山王女坂。
外堀通り側には大きな山王鳥居があり、新しい階段の横にはエスカレーター。
橋を渡ると境内に到着する。
神門には猿の神像があり、
社殿に向って右側は烏帽子を被った猿、左側は子猿を抱えた猿。
社殿前の狛犬も、同じ猿。猿は山王権現の神使なのだ。
朱の拝殿の後方に本殿があるはずだが、残念ながら見えなかった。
戦前は権現造りの国宝社殿だったが、戦禍で焼失してしまい、
現在は鉄筋コンクリートだそうだ。
当社の起源は古く、南北朝以前、
江戸氏が江戸郷の守護神として、山王宮を江戸館に祀り、
文明10年(1478)川越城主太田道灌が、
江戸開拓築城に際し、江戸氏館の跡地に、川越から日吉社を勧請。
天正18年(1590)徳川家康江戸入城に際し、
江戸城内の梅林坂より紅葉山に移遷。
江戸城の鎮守とした。
慶長9年(1604)、江戸城大改造の際、
半蔵門外の麹町隼町(現在の国立劇場)に遷座し、
江戸町民の参拝も可能となったが、
明暦3年(1657)正月19日の大火によって焼失。
万治2年(1659)永田町星が岡の台上の現在地に遷座した。
明治元年11月8日、東京遷都に際し、准勅祭社に列せられた、
いわゆる東京十社の一つ。
明治5年に府社、同15年に官幣中社となり、
大正天皇御即位の時に、官幣大社となった。
賽銭箱には二葉葵の紋が付いていたが、
社殿には三巴紋と菊紋が付いていた。
東京の中心部にある神社で、
外堀通り沿いにある大鳥居が、白く輝いてかなり目立つ。
東側の鳥居前にはキャピタル東急ホテルの客待ちタクシーが並んでいる。
南参道の山王鳥居 | 上から | 表参道の山王鳥居 |
表参道山王男坂 | 階段上神門 |
境内 |
狛猿 | 社殿 | 狛猿 |
当社の摂社は、日本橋茅場町にある日枝神社。
当社の神幸祭の時に神輿を一時留めた御旅所が起源。
境内の北側に末社が2棟。
山王稲荷神社(倉稲魂神)と、八坂神社(素盛嗚神)・猿田彦神社(猿田彦神)。
左側の山王稲荷神社は、万治2年造営の建築物だそうだ。
境内社 | 境内社社殿 |
日枝神社
鎮座地東京都千代田区永田町二丁目十番五号。世に山王台又は星が岡の古称がある。 御祭神 御神徳 大山咋神(おおやまくいのかみ)。相殿神は、国常立神・足仲彦尊・伊弉冉神の三柱。 主祭神の神系は、
御由緒 江戸山王の始元は遙に鎌倉中期に遡るが、古記社伝によれば、 文明十年(一四七八年)太田道灌公が江戸の地を相して築城するに あたり、守護神として川越の山王社から勧請した。やがて徳川家康公 江戸入城に際し、荒漠たる武蔵野開拓の要衝の地として、此の城祠 に国家鎮護の基を定めた。歴代の将軍世嗣子女および諸大名の参詣 が絶えず、やがて万治二年(一六五九年)将軍家綱は、天下泰平、 万民和楽の都を守護する祈願所を建立し奉る大志をいだき、現在地 に結構善美を尽した権現造り社殿を造営した。明治十五年官幣中社に 更に大正四年官幣大社に列せられた。 大戦後の御復興のあらまし 万治二年造営の社殿は、江戸初期の権現造りの代表的建物として 国宝に指定されていたが、昭和二十年五月に戦禍に遭い焼失した。 戦後の神社神道は、大変革を余儀なくされ、混沌たる社会情勢の 中で、復興事業は困難を極めたが、氏子崇敬者の赤誠奉仕により 「昭和御造営」の画期的な大業が企画された。昭和三十三年六月 本殿遷座祭斎行、引続き神門、廻廊、参集殿等が逐次完成、更に 末社改築、摂社の大修築、神庫校倉の改造等を相次いで竣工し、 全都をあげて之を慶賀し、昭和四十二年六月奉祝祭が先づ斎行され この間、昭和三十三年六月現在地御鎮座三百年祭が執行された。 昭和五十二年七月江戸城内御鎮座五百年奉賛会が結成され、五百年 を祝する式年大祭を厳修し、昔をしのぶ天下祭にふさわしい山王 神幸祭の復元。尚記念事業として、「日枝神社史」の刊行、「宝物 収蔵庫」の建築、本殿以下社殿の修繕、境内整備等が計画されて 着々実施され、昭和五十三年六月十五日の吉辰を卜し五百年大祭が 厳粛に行われ、更に昭和五十四年六月十三日、宝物収蔵庫の建設 という有終の功竣つて、日枝神社御鎮座五百年奉賛会事業達成 感謝奉告祭を極めて意義深く執行し、朝野多数の御参列を 賜わりました。 −境内案内板− 参拝のしおり 当社は武蔵野開拓の祖神・江戸の郷の守護神として江戸氏が山王宮を祠り、さらに文明十年(一四七八年)太田道潅公が江戸の地を相して築城するにあたり、鎮護の神として川越山王社を勧請し、神意赫赫として江戸の町の繁栄の礎を築きました。 やがて天正十八年(一九五〇年)徳川家康公が江戸に移封され、江戸城を居城とするに至って「城内鎮守の社」「徳川歴朝の産神」として、又江戸市民からは「江戸郷の総氏神」として崇敬されました。 二代秀忠の時の江戸城大改造の際、城内紅葉山より新に社地を江戸城外に定め、社殿を新築して遷祀されました。 世に伝える元山王と称する地は今の隼町国立劇場附近である。 この時から別当神主を定め神社の規模は大いに備わり、広く一般衆庶も参拝し得る道を開きましたが、明暦三年(一六五七年)の大火に社殿炎上の災いに遇いましたが、時の将軍家綱は直ちに赤坂の溜池に臨む松平忠房の邸地を官収して社地に充て、結構善美を尽くした権現造り社殿を造営・遷祀され、天下泰平、万民和楽の都を守護する祈願所として崇敬されました。 明治元年東京奠都と共に勅使奉幣が行われ、御西下御東幸に際しては御途中安全の御祈祷を修せしめられ、明治二年七月天下水患にあたり勅使祈晴の御事があり、宮妃御懐妊の際は御安産の御祈を修せられ、皇室典範帝国憲法の制定を始めとして開戦及び平和克復等の重大事に際しては、常に勅使参向御奉告が行われ、畏くも大正天皇儲宮にまします時、新しく御参拝があり、明治天皇は御愛蔵の御太刀一振(長光)を進献あそばされました。 万治二年御造営の社殿は、江戸初期の権現造りの代表的建物として国宝に指定されていましたが、昭和二十年五月戦禍に遭い、末社山王稲荷神社を残し悉く烏有に帰しましたが、氏子崇敬者の赤誠奉仕により「昭和御造営」の画期的な大業が企画され、昭和三十三年六月本殿遷座祭齋行、引続き神門・廻廊・参集殿等が逐次完成、更に末社改築、摂社の大修築、神庫校倉の改造等を相次いで竣工し、全都をあげて之を慶賀し、昭和四十二年六月奉祝祭が先づ齋行され、この間、昭和三十三年六月現社地御鎮座三百年祭を齋行し、ここに昭和二十四年復興後援会発祥以来十年に亘る歳月を以て、山王台上に再び大社の偉容を拝するに至りました。 昭和五十二年七月江戸城内御鎮座五百年奉賛会が結成され、昭和五十三年六月五百年を祝する式年大祭を厳修し、昔をしのぶ天下祭にふさわしい山王神幸祭の復元、尚記念事業として、「日枝神社史」の刊行、「宝物殿」の建築、本殿以下社殿の修繕、境内整備等が実施されました。 −『平成祭データ』− |