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倉賀野神社
くらがのじんじゃ
群馬県高崎市倉賀野町1263  Zenrin Data Com Maps display !!


三つ巴


八鎚車


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御祭神
大國魂神
配祀
御間城入彦五十瓊殖命 活目入彦五十狹茅尊 大足彦忍代別尊
豊城入彦命 八綱田命 彦狹嶋王命 御諸別王命 荒田別巫別命
上毛君田道命 上毛君形名命 上毛野稚子命
上毛野安麿命 上毛野朝臣廣人命 上毛野朝臣頴命
合祀
速須佐之男命 宇迦之御魂命 月夜見命 菊理比咩命

群馬県高崎市にある。
倉賀野駅の南西500m。道程で1Km弱の倉賀野町に鎮座。
中学校の北側に、道路に面して東向きに境内がある。

境内入口には金属製の鳥居が立ち、鳥居の左右に社号標。
右の社号標には「 倉賀野神社」、
左の社号標には「 総鎮守圀䰟」とある。「圀䰟」は「国魂」の別字。

鳥居をくぐると、右手に公民館。
参道の左手に手水舎があり、さらに進むと小さな神饌田がある。

拝殿は瓦葺入母屋造向拜付き。後方の本殿は銅板葺流造。
現在の本殿は幕末のものらしい。
拝殿には扁額が二枚あり、「倉賀野神社」「飯玉大明神」と並んでいる。
当社の通称は飯玉さま(いいだまさま)なのだ。

参拝は晩秋十一月の早朝。
陽が昇り始めた頃で、東向きの社殿は朝日を浴びてオレンジ色。
砂利の境内の奥は枯葉が積もって良い雰囲気で、
とにかく綺麗な神社境内だった。

拝殿内に天明七年の狩野探雲作・厄除 雲龍図があるらしいが、
拝殿の扉は閉まっていて良くわからなかった。

社伝によると、第十代崇神天皇の四十八年九月十九日、
皇子豊城入彦命が、陣中すなわち今の境内にて斎場を設け、
松樹をお手植えになり、亀形の御愛石を御魂代として祭祀したのが当社の起源。

上野国神名帳に「正五位上 大国玉明神」とある古社。
当社祭神・大国魂神とは、大国主命の荒魂のことで、
旧社名は飯玉神社。明治十年大国魂神社と改称し、
同四十三年に近隣の数社を合併して倉賀野神社と改称した。

当社には「飯玉縁起」という書が伝わっており、
以下のような伝説がある。

第四十九代光仁天皇の御代、群馬郡の地頭群馬太夫満行には八人の子がいた。
末子の八郎満胤は優秀であったため、兄たちの恨みを買い、
夜討の末に、鳥啄池の岩屋に押しこめられた。

三年後、八郎は龍王の智徳を受けて大蛇とって兄たちへの復讐を遂げるが、
その後も人々を害するようになり、帝はこれを憂え、年に一人の生贄を許した。

 小幡権守宗岡が贄番に当たる年、十六才の娘海津姫をの別れを嘆き悲しんでいる時、
都からやってきた奥州への勅使、宮内判官宗光はこれを知り、海津姫と共に岩屋へ入 った。
宗光は、暴れる大蛇に対し、一心に観世音菩薩の名を唱え、琴を弾いた。
すると、大蛇は黄色の涙を流し て悔い改め、神明となって衆生を利益せん、
吾が名は飯玉」と託宣し消え失せた。
その後、社殿を建て「飯玉大明神」を祀ったという。

八十神に迫害された大国主命と、八岐大蛇退治の素盞鳴尊を合わせたような話だが、
最後は仏の力によって改心し、神となる話。
『神道集』所載の「上野国那波八郎大明神事」は、これとほとんど同じ話だが、
八郎の父・満行は戸榛名神(満行宮)、ヒーロー宗光は辛科神、
八郎に智徳を授けた龍王は伊香保や赤城の龍神など、
まず仏が人間となって現れ、悲しみや苦悩の末に神となって
衆生を救うのだ、という話で終わっている。

なお、旧那波郡(群馬県南部)には飯玉と称する神社が数十社存在する。
この飯玉神のように、群馬県は地域ごとに中心となる神が存在し、
神々が連携したり、敵対する構図の伝説があって面白い。

境内入口の社号標には、三つ巴紋と八鎚車紋が刻まれており、
鳥居や拝殿前の提灯にも八鎚車紋。
社殿の屋根には三つ巴紋が付けられていた。
鎚は大国主の持ち物だが、当社は「八」がキーワードなのだろうか。

社殿後方にはいくつかの境内社が並んでいる。
左から、甲子大黒天、冠稲荷社(宇迦之御魂命)。
天明神輿を納めた神輿庫の横に天神社(菅原道眞)と
以下の社を長屋状に祀った境内社。
大歳御祖神社(大歳御祖神)、水神社(弥都波能売神)、
土神社(埴安神)、木神社(久々能智神)、山神社(大山祇神)、
金神社(金山彦神金山姫神)、火神社(火迦具土神)、
海神社(大綿津見神)、雨神社(天水分神国水分神)、
風神社(級長津彦神級長戸辺神)。

さらに庚申塔が並び、飯塚久敏の歌碑もある。
また、境内の南側。中学校との境の道路を背にして、
北を向いている北向道祖神(猿田彦大神 )のまわりにも
庚申塔や磐座らしき岩がある。

なお、拝殿の向拜に琴を弾く宗光の彫刻がある。
信濃の彫師・北村喜代松の作らしいが、
参拝時に特に気に留めていなかったのでまともに写真を撮ってない。
今回、拝殿全景の一部を拡大してみたが。
次回参拝する機会があれば、ちゅんと撮影したい。


社頭

手水舎

神饌田

境内社殿

拝殿

本殿

社殿

拝殿向拜の琴を弾く宗光

拝殿扁額二枚

境内社

甲子大黒天

冠稲荷

天神社ほか

庚申塔

北向道祖神と庚申塔

北向道祖神

飯玉縁起
 光仁天皇(七七一〜七八〇)の御代、群馬郡の地頭群馬太 夫満行には八人の子がいた。末子の八郎満胤は、芸能弓馬の 道にすぐれ帝から目代の職をたまわるようになった。ところ が兄たちは八郎を夜討にして、鳥啄池の岩屋に押しこめた。 三年後、八郎は龍王の智徳を受けて大蛇となり、兄たちとそ の妻子眷属まで食い殺した。その害は国中の人々まで及ぶよ うになったので、帝はこれを憂え、年に一人の生贄を許した。
 やがて、小幡権守宗岡が贄番に当たる年、十六才の娘海津 姫との別れを共々に嘆き悲しんだ。都からやってきた奥州へ の勅使、宮内判官宗光はこれを知り、海津姫と共に岩屋へ入 った。頭を振り尾をたたく大蛇にむかい、一心に観世音菩薩 を称名、琴を弾いた。これによって、大蛇は黄色の涙を流し て悔い改め、神明となって衆生を利益せんと空を飛んだ。烏 川の辺に移り、「吾が名は飯玉」と託宣し消え失せた。これ を見た倉賀野の住人高木左衛門定国に命じて、勅使宗光が建 てさせたのが「飯玉大明神」であるという。これが「飯玉縁 起」のあらすじである。
 この話は、十四世紀半ばに編さんされた神仏習合を説く縁 起物語集『神道集』、巻八所載「上野国那波八郎大明神事」 によく似通っているので有名である。「飯玉縁起」一巻は、 江戸初期の寛文十二年(一六七二)すでに存在していたとさ れる伝来の社宝であり、唱導文芸『神道集』の研究にとって も欠かせない貴重な資料である。
 そして、今でも拝殿正面の向拜に、宗光が琴をかなでる彫 刻が、見られるのは興味深い。社殿の彫刻が、祀る神の伝承 縁起を物語っているということ自体が、全く珍しいからであ る。−(彫師は北村貴代松・石川兼次郎)−
 なお、この「飯玉縁起」は「神道大系」(神社篇二十五) に収載されている。

−境内由緒−



倉賀野神社由緒略記
御鎮座地
群馬県高崎市倉賀野町一二六三番地
中山道倉賀野宿に鎮座。近くには利根川水運の最上流地点あたる倉賀野河岸跡、また国指定史跡「浅間山(せんげんやま)古墳」などがのこる。
御祭神
大国魂大神他十四柱
御祭日
秋季例祭十月十九日 春季大祭四月十九日
御由緒
第十代崇神天皇の四十八年九月十九日、皇子豊城入彦命が当国に君臨なさったとき、陣中すなわち今の境内にてまず斎場を設け、松樹をお手植えになり、亀形の御愛石を御魂代として御祭祀あらせられたのが起源と伝えられる。上野国神名帳に正五位上大国魂大明神とあるは即ちこの神のことで、大国主命の荒魂である。旧社名飯玉神社。明治四十三年倉賀野神社と改称。
御神徳
大国魂神の祭祀は古来、その土地の生命・魂を祭る「国魂信仰」とも呼ばれ、各地に伝わるものである。当地においては豊城入彦命の東国平定以来二千年、この地の民生安定と産業振興を御守護頂いている。「縁結び・夫婦和合」の御神徳で広く知られる一方、「医薬」の神さまとしても霊験あらたかである。
御社殿の建築と彫刻
現在の御社殿は、嘉永六年(一八五三)四月の寺社奉行あて修復願い提出に始まり、幕末の激動のさなか、じつに十二年以上の歳月をかけて造営されたものである。社殿の特徴の第一は、多くの彫り物があり、それに彩色をせず、彫りそのものの冴えを見せていることである。第二に、造営に関わる古文書として「木割仕様帳」と「御普請仕様書」の二冊が現存しており、この中に彫り物や建築部材がリストアップされていること。これにより実際の彫り物と文書中の名称・仕様・個数との比較が可能であり、建築学上、貴重な資料とされる。本殿と古文書は高崎市指定重要文化財。(参考文献「倉賀野神社造営史料」西和夫神奈川大学教授他著昭和六十三年刊)
彫刻は新井金十郎、石川兼次郎(上州)、北村喜代松(信州)他。なかでも北村喜代松は、長野県鬼無里(きなさ)村に山車・神輿の名作を多数残していることで知られる。
沿革
大同二年(八〇七)坂上田村麿 造営舞楽奏上、
建長五年(一二五三)倉賀野三郎高俊 社殿造営、
至徳三年(一三八六)倉賀野三郎左衛門尉盛勝 社殿造営、
長禄二年(一四五八)倉賀野三河守行政 社殿造営、
永禄二年(一五五九)金井(倉賀野)淡路守 社殿修復、
延享四年(一七四七)氏子造営、
寛政元年(一七八九)氏子造営、
元治二年(一八六五)三月十九日御本社上棟式 氏子・七ケ郷村々造営 (七ケ郷とは明治の町村制施行以前の上中居、下中居、下之城、矢中、中里、栗崎、台新田の各村をさす)
御宝物
「飯玉縁起(いいだまえんぎ)」一巻
坂上田村麿「翁面(おきなのめん)」
奉納記念物
御神号扁額(佐文山書)金井淡路守五世孫金井十兵衛勝禧 享保十九年、
御神号扁額(深川親和書)上町須賀弥次郎 安永八年、
神輿 須賀七代庄兵衛吉抵妻圓 天明五年、
雲龍図(狩野法眼探雲守照画)天明七年、
太鼓 仲町中 旅篭屋中 文化五年、
算額(高崎市指定重要文化財)鈴木角右衛門 慶応三年、
石玉垣 倉賀野宿飯盛女名入り
飯玉縁起
略(上記参照)
境内社
北向道祖神社(きたむきどうそじんしゃ)無病息災・交通安全 祭日一月十五日、
冠稲荷社(かんむりいなりしゃ)五穀豊饒・商売繁昌 祭日二月十一日、
天神社 学業成就・諸芸上達 祭日二月二十五日
三社とも霊験あらたかで遠近より参拝が絶え間ない。

−『平成祭データ』−



【 倉賀野神社 (高崎市) 】

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