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鎌倉宮
かまくらぐう
神奈川県鎌倉市二階堂154
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御祭神 |
神奈川県鎌倉市にある。
鎌倉駅の東方2Kmほどの二階堂に鎮座。
社前は広い駐車スペースになっており、
階段を上がって境内。正面に拝殿。
祭神・護良親王の後醍醐天皇の第一皇子。
比叡山において天台座主となり大塔宮と称していたが、
父帝とともに、鎌倉倒幕を果たし、建武の中興を実現。
ところが、足利尊氏と新田義貞の対立から、
足利氏の反逆、南北朝へと移行するなかで、
護良親王は、鎌倉東光寺の土牢へ幽閉され、
その後、斬首されて非業の死を遂げた。
建武の中興は、武家中心の社会を、
古代の律令国家へ戻し、天皇中心の社会へ復帰させることが目的。
徳川幕府の武家社会から維新によって、明治政府を樹立した
明治天皇にとっても、この建武の中興は意味深い時代であり、
建武中興に尽力した祭神・護良親王を、その功によって
最期の地、鎌倉へ祀ったのは、明治2年。
鎌倉宮は、護良親王が幽閉された土牢のあった東光寺跡にあり、
本殿後方には、今でも、その土牢が残されている。
ちなみに、建武の中興に関係した、南朝側の皇族・武将は
明治になって、各地に官幣社として祀られている。
『建武中興十五社』を参照。
境内社の村上社と南方社は、平成十七年に移設されたらしいので、
また、いつか伺ってみよう。
社号標 | 境内入口の鳥居 | 境内の鳥居 |
境内 |
境内社 村上社と南方社 | 拝殿 |
本殿 | 拝殿 |
本殿後方、土牢への階段と門 |
祭神が9ヶ月間幽閉された土牢 | 土牢内、深さ4m、広さ4m四方 |
勅碑 | 祭神の首が置かれた場所 御構廟 | 多宝塔 |
鎌倉宮御由緒
鎌倉宮は大塔宮護良親王を奉斎する神社です。親王は延慶元年(一三〇八)、後醍醐天皇の第一皇子としてお生れになり、十一歳にして比叡山延暦寺に入られ、幼少の頃から聡明な親王は二十才の若さで天台座主となられました。 当時、後醍醐天皇は鎌倉幕府の専横による国家の荒廃を憂えられ、天皇親政による平和国家の実現に望まれまして、ついに幕府討伐を計画されました。 元弘元年六月、親王は父帝と友に比叡山において討伐の兵を挙げるはずでしたが討幕計画が幕府の知るところとなり、後醍醐天皇は幕府に捕えられ隠岐に流されてしまいました。親王は父帝の意志を継ぎ還俗され一身を投げ打って幕府軍と戦われ幾度もの苦戦にも屈せず楠木正成らと供に幕府の大軍を吉野城、千早城に引きつけ粘り強く交戦されておりました。その間に親王の討幕の挙兵を促す令旨に応じた諸国の武士達は各地で兵を起こし、形勢は有利に展開し、足利尊氏が寝返って京都六波羅探題をおとし、群馬で新田義貞が挙兵し鎌倉に攻め込み、ついに北条一族を滅ぼしました。 これに先立ち、後鳥羽天皇は隠岐を脱出し、名和長年に守られて京都におもどりになり、ここに親王の御辛苦が実って建武中興となりました。この功績により親王は兵部卿征夷大将軍となられました。 しかし、尊氏が奉行所を開き、諸国の武士達に棟梁であることを誇示し北条市に代わって武家政権を執ろうと企てたので、親王はこれを討たんと兵を集めるが、建武元年九月、逆に尊氏の策謀にあい、捕らえられて鎌倉へ送られ、尊氏の弟直義によって東光寺の土牢へ幽閉されました。 翌建武二年(一三三五)七月二十三日、北条時行が残党を集め鎌倉を奪還しようと鎌倉へ攻めてきた戦いに直義は敗れて、鎌倉を逃れる際、家臣淵辺義博に親王暗殺を命じました。親王は九ヵ月をも幽閉された御身では戦うこともできず、淵辺義博の凶刃によりその苦闘の生涯を薨じられました。時に、親王御年二十八才という若さでした。 明治元年、維新の大業を成し遂げられた明治天皇は、建武中興に尽され、非業の最期をとげられた徳高き護良親王に遥かに思いをはせられ、京都聖護院に御神座を設けて親王の霊を慰められました。 そして明治二年二月、明治天皇は平和国家の実現にひたすらご努力されたそのご遺志を永久に伝えていかれることを強く望まれ、親王の終焉の地である東光寺跡に神社設立のご勅命を発せられ、御自ら社名を「鎌倉宮」と名付けられました。 そうして創建されたのが、鎌倉宮です。 −『平成祭データ』− |
【 鎌倉宮 】