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火雷神社
からいじんじゃ
群馬県佐波郡玉村町下之宮甲524

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式内社 上野國那波郡 火雷神社 |
群馬県佐波郡玉村町にある。
伊勢崎駅と新町駅の中心あたり、利根川の南岸の下の宮にある。
狭い路地の奥に、狭い参道が北へ延びて境内。
利根川と烏川に挟まれた田園地帯である。
利根川の対岸に上の宮という地があり、そこには式内・倭文神社が鎮座している。
近世以前の利根川は、現在の広瀬川を流れていたらしく、
当時は、上之宮(倭文神社)と下之宮(当社)は、ちょうど1Km離れた南北に位置していた。
社伝によると、創祀は崇神天皇元年。
案内板では景行天皇の御代となっている。
上野国の式内社は、
賀茂・美和・倭文・火雷など、大和の国から遷されたと思われるものが多く、
創祀の時代も、各社とも関連した時代だろうと思う。
祭神は、火雷神が妥当なものだが、
『神名帳考證』にある香々背男という記述が興味深い。
香々背男は、日本書紀に登場する神で、
葦原中国平定の際、最後まで従わなかった国津神だが、
その神を平定したのが、倭文神社の祭神・建葉槌命。
当社が上野国八宮で、倭文が九宮であるにもかかわらず、
倭文を上の宮、当社を下の宮と呼ぶのもそのためかも知れない。
と思った。
当社の特殊神事に「御神事(ゴジンジ)」というものがあり、
11月末の午の日から12月始めの午の日まで、
境内に注連縄を張って、参詣者等の出入りが禁じられる。
ある種の物忌祭であるが、祟り神の匂いがする。
境内社に、八坂神社(素盞嗚命)や飯玉神社・蚕霊神社(保食命)があるらしいが、
社殿の横に、ずらっと小さな石祠が並び、どれがどれか分からない。
数えていないが、全部で19社あるらしい。
参道の鳥居 ![]() | 参道 ![]() |
境内 |
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本殿 ![]() | 拝殿 ![]() |
神楽殿 ![]() | 境内の石祠群 ![]() |
火雷神社
この神社は、上州名物の一つになっている雷の神様であ
る火雷神をまつってある。 景行天皇の時代に上野国の
統治者御諸別王がまつったと伝えられ、平安時代の延暦十
五年(七九六)官社となり、延喜の制では小社に列して上
野十二社の八の宮として、上野国神明帳に従一位大名神と
かかれている。 鎌倉時代の始め、建久二年(一一九一
)大江広元の子政広は那波氏となり、その後佐波郡地方の
領主となって四町歩の田を神社に献じた。 天正年間那
波氏の滅亡で神社も衰えたが、明治五年(一八七二)郷社
となった。 現在の建物は、江戸時代中期以降の建造で
本殿は三間社流れ造りである。 また、伊勢崎市上之宮
の倭文神社と相対し、その上之宮に対し下之宮といわれ、
地名起源ともなっている。 麦蒔ゴジンジ(御神事)−
火雷神社に伝わる祭りで、貞観四年(八六二)より始まり
毎年五穀豊穣、災難除けの秘密の神事を行ない今日まで伝
え行なっている。旧暦十月末午の日丑の刻に神官が礼拝を
始めると代表が神社の四面にシメ縄を張り、神官が退出す
る時に丁度張り終えるようにする。代表は一週間精進潔斎
し、シメ縄を張り廻らす時は声を出すことは厳禁とされ、
十一月初午の日丑の刻に祭りがあけるまでは鳴物は禁止(
馬がいた時は鈴もはずした)であり、シメ縄を張るのを「
ゴジンジに入る」という。 深夜に行なわれるこの神事は
古代の祭りの様式の面影を伝えているように思われる。−境内案内板より− |
