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鶴谷八幡宮
つるがやはちまんぐう
千葉県館山市八幡68

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千葉県館山市にある。
館山駅の北1Kmの八幡に鎮座。
内房なぎさラインそばに大きな鳥居が立ち、参道は東へ延びる。
参道を歩くと、正面に西向きの社殿。
緑の境内の南側には、安房神社遥拝所という立派な社殿も立つ。
遥拝所なのに、そこらの神社よりも立派な構えだ。
拝殿のそばには、若宮八幡神社(大雀命)。
他にも、横長の社殿に多くの境内社が祀られていた。
拝殿向拝の天井の百態の竜の彫刻は、
房州の名工後藤利兵衛義光の作で館山市の文化財。
安房國総社として、国府の地(現在の南房総市府中)に創建された。
その後、鎌倉時代に現社地に遷座。
旧社地には、元八幡という神社が残っているらしい。
平安時代の国府が衰微するにつれ、総社としての機能を失い、
鎌倉幕府(源氏)の崇敬する八幡へと変化したようだ。
神紋は、賽銭箱や社殿の屋根に付いていた桐紋だと思う。
ただし、手水鉢には八幡の紋である巴紋が付いていた。
曇天の早朝の参拝で、暗い境内だが、とにかく緑が美しい。
参道は砂利は掃き清められ、清潔である大きな神社。
大鳥居 ![]() | 参道と鳥居 ![]() |
境内 |
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拝殿 ![]() | 安房神社遥拝所 ![]() |
若宮八幡神社 ![]() | 拝殿の額と竜の彫刻 ![]() | 本殿 ![]() |
安房国総社 鶴谷八幡宮略誌
御祭神品陀和気命(応神天皇)、帯中津彦命(仲哀天皇)、息長帯姫命(神功皇后) 御由緒 当社は平安朝の初期、即ち今より凡そ一千年程前、安房国の総社として国府の地(現在の三芳村府中)に創建された。当社の祭式中に六所祭という祭式があるが、これは当時総社を六所明神とも称したことから起こったことで、これによっても当社が昔の総社の後身であることがうかがわれる。又、現在三芳村府中に元八幡と称する小さな神社があるが、これが当社が府中にあった所の跡で、またそこに神供水の井戸があり当社の例祭には、最近までこの井戸の水を汲んで用いていた。 後、源頼朝が鎌倉に幕府を開き諸国に守護地頭を置くに及んで国司の権勢が次第に衰え、従って総社の崇敬も衰微するようになった。一方、源氏は八幡大神を氏神として崇敬したので、総社の祭神の中の八幡大神が特に崇敬されるようになり、逐には総社が改変されて八幡宮となり、鎮座地も現在の処に移されたと伝えられている。移された時代については明確な記録がないのではっきりさせることはできないが、凡そは鎌倉時代の頃と推察される。いい伝えによれば源頼朝は安房国より再起する折、当社に詣で武運長久祈念したと言われている。又神社の旧記に、建保年間、将軍源実朝が社殿を造営奉納したことが記されている。その後里見氏の時代に至り、鎌倉管領古河公方及び里見家累代の厚い崇敬をうけた。里見家より一七一石の社領の寄進をうけていたことも、その一端を示すものである。又、永正五年に里見家第三代領主義通が社殿を再建したのを始め、義豊、義尭、義弘、義頼、義康等が代々社殿を修理奉納している。徳川幕府も里見氏のあとをうけ、同じく一七一石の社領を寄進している。明治維新になり、明治六年に郷社に列せられ、後昭和一五年に県社に昇格した。終戦後、社格は廃され宗教法人「鶴谷八幡宮」として今日に至っている。 御祭儀 歳旦祭一月元旦、筒粥神事一月十五日、節分祭節分の日、祈年祭二月十七日、虫送り神事六月三十日、風神祭八月三十日、例大祭九月十四日・十五日、七五三祭十一月十五日、新嘗祭十一月二十三日 例大祭 当社の例大祭は昔の国司祭を継承したものと伝えられている。国司の権勢の盛んな時は総社としてのおまつりも盛大に行なわれたことと思う。この年一度の大祭には民衆も多数参拝に集まったこととて、府中に市も開かれた。この府中の市もごく最近まで開かれていたが、現在は廃止されている。当社が総社から改変され八幡宮となり、現在の地に遷座されて、この国司の祭は当社が代わって継承するに至った。九月十四日、十五日に行なわれる例祭が、即ちこれである。現在安房神社を始め洲宮神社、下立松原神社、手力雄神社、山宮神社、山荻神社、莫越山神社、木幡神社、高皇産霊神社、子安神社、合せて十社の神社の神輿が十四日に当社境内にある御仮屋に御出祭され、昔ながらの神事が年々執り行われている。尚、現在は館山市北条地区の五基の山車も参加し十五日は立錐の余地もない程の賑いで関東でも有数のお祭とされている。徳川時代までは、仏教の影響でこの大祭を放生と称し別当寺那古寺もこれに参加していた。 御社殿 社殿の造営については、古い時代のことは詳かではないが、棟札等により明確なものは永正五年に里見義通によって造営されて以来、七回に及んでいる。現在の本殿は享保五年に造営されたもので、館山市の文化財に指定されている。幣殿拝殿は大正十二年の震災に倒潰し昭和七年に復興された。建物の構造及び大きさ等は凡そもとの通りであり、彫刻等は古いものをそのまま用いている。特に向拝の天井の竜の彫刻は房州の名工後藤義光の作で館山市の文化財に指定されている。 −『平成祭データ』− |
【 鶴谷八幡宮 (館山市) 】
