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大前神社
おおさきじんじゃ
栃木県真岡市東郷937
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式内社 下野國芳賀郡 大前神社 |
栃木県真岡市にある。
JR北真岡駅の東1Kmほど。五行川の西岸に鎮座。
五行川周辺は古代の郡衙跡や古墳が散在する場所。
境内入口の鳥居をくぐり、参道を歩くと赤い鳥居。
で、左手に目をやると、巨大な恵比須像が目に入る。
台座7m、本体13mと巨大なのだ。日本一なのだ。
抱えている鯉も5mあるらしい。
えびす像に目を奪われがちだが、当社の本殿彫刻がすばらしい。
桃山末期の作だそうで、
火防のために、鯉・海獣・犀・玄武などの水神を配し、
麒麟・貘・ 白象・虎・獅子・鳳凰・鸞・鶴・鷹などの
霊獣と数々の仙人など、見ていて飽きることがない。
創祀年代は不詳。
社伝によれば、人皇48代称徳天皇の神護景雲年中(767〜769)に
社頭朽頽のため再建されたという。
祭神は大己貴命と事代主命だが、
本来の祭神は、大己貴命一柱。
事代主命は、合祀された荒樫神社の祭神と伝えられている。
中世には芳賀氏の崇敬を受け、
大内庄三十三郷の総鎮守となった。
社殿の周囲には、多くの境内社がある。
八坂神社(須佐之男神)、雷神社(大雷神)、琴平神社(大物主神)、
大物主大国魂神社(大物主神・大國魂神)、大杉神社(大山祇神)、
天満宮(菅原道眞命)、荒神社(素盞嗚命)、淡島神社(少彦名神)、
稲荷神社(稻倉魂神)、足尾山神社(猿田彦神)、
恵比寿神社(事代主神・彌都波能賣神)。
以下は未確認。境外にあるのかもしれない。
皇大神宮(天照皇大神)、子安神社(木花開耶姫命)、明眼神社(大國主命)、
古聖神社(聖徳太子・事代主神)、愛宕神社(火産靈神・火具槌神)。
鳥居 | 鳥居 | 鳥居 |
社殿 |
本殿 | 拝殿 |
恵比須神社の上にえびす像 |
神楽殿 | 八坂神社 |
雷神社 | 琴平神社 | 大物主大国魂神社 |
大杉神社 | 天満宮 | 荒神社 |
淡島神社 | 稲荷神社 | 足尾山神社 |
延喜式内大前神社 ご本殿
この本殿は、桃山時代末期文禄
二年(一五九三年)に建てられま
した。見事な彫刻の数々は、宝永四年 (一七〇七年)名工藤田孫平治を 棟梁として彫られたものです。 このあと、藤田孫平治は、成田山 新勝寺の三重塔の彫刻も担当され ました。 本殿の回りは火防の意味を込め て水神である二十四の龍頭が、陰 陽和合の形態で神様をお守りして います。 本殿東側壁の上部には、当社ご 祭神の使いである鯉にちなみ、「鯉 に乗る仙人」「玄武を司る仙人」 等、北側には、「香を楽しむ仙人」 「薬の仙人」等、西側には、大国 様恵比須様にちなみ、「因幡の白 兎」「魂を生む仙人」「雅楽を奏 する仙人」等々の華麗な彫刻が彫 られています。 −境内案内− 由緒沿革概要書
社伝によれば、当大前神社は、芳賀郡と若色郷(若績郷)古聖(こひじり)、鏡田等地名の発祥地にして、社名祭神の霊跡に起源し、(社家別当代官の交代により、古代の創立の事、文蹟に詳かでないが)古くから大内庄三十三郷の総社として、宏大な社領の中に壮厳なる社殿を営み、大利根の支流鬼怒川、五行川、小貝川、三川の間湖沼に点在する田畑丘陵に恵まれ、農林漁労豊富な中心地に位置し、周辺非常なる繁栄の中に、北は氏家、南は常陸真壁郡一帯にまで崇敬圏が及び、延喜の制下野国十一社の内に撰定せられた式内名社である。神護景雲元年社殿を再建す。常陸国真壁郡坂東の東叡山黒子千妙寺の末寺として現存する大前山般若寺縁起にも「当山は大前山金剛院と称し、創立は清和天皇の貞観四年慈覚大師の開基にして、古聖に建立千妙寺と号せり。野州芳賀郡鎮守大前神社別当也云々」とある通り、古くから神仏習合し、薬師如来を配し本地堂を営み、明治初年廃仏毀釈まで神仏混淆す。即ち代々の神職祠官祝詞を奏し玉串を奉り、別当は大般若経を転読し護摩を焚き、天長地久国家安穏、晴雨順次、五穀豊穰家内安全を祈願す。爾来、豪族城主代官と、地元氏子民の力を合せ、代々その都度改築修理再建を重ねて今日に至る。 降って、平将門殊に崇敬厚く、為に天慶二年関東に下りて戦を起すや、合戦勝利の祈願を真岡大崎大明神にかけて、其の勘行を五行川の水辺に為せりと云う。ついで六十五代花山天皇寛和元年、清原滝口蔵人吉澄(天武天皇皇子舎人親王八代の後胤)の子大監物清原高重天皇の勅勘を蒙り、芳賀郡に配流され、社領内の大内京泉に居館し当社を尊崇せられた。高重六世の子孫高澄は、若色の郷(当神社の東隣の地)に居城し、康平六年勅免に依り上京を許され、滝口蔵人に復職し、芳賀氏を称し始祖となり、当社を尊崇せられること益々厚きを加えた。芳賀高澄七代の孫、高親に至り、当社の南に御前城を築き従来より引続き二十二代芳賀十郎清原高定に至るまで、当社の社領守護職を兼ね、豪族城主として代々厚く尊信された。殊に現存する社宝の中で、十四代左兵衛尉芳賀禅下入道清原高名は、観応二年北朝足利氏の武将として戦功あり、南北和議に際し、当社に平和祈願の為に太刀一振を寄進す。天正十六年二十三代清原高継は、真岡の東台地(現在の城山真岡小学校敷地)に芳賀城を築くに先だち、当社別当大前山般若寺能海に写筆させた平家物語大前神社本十二巻を同年八月寄進し、平和祈願の為奉納す。更に高継は、これより先天正元年十一月十七日兵火により社殿炎上し、悉く烏有に帰したのを嘆き、仮殿のままなりし当社本殿並に本地堂改築の大事を氏子と共に進め、文禄二年正月完成した。慶長の始め二十四代芳賀高武山形に去り、芳賀城主欠所と同時に、境内と鏡田、芳賀沼、古聖を除く社領の大半を没収せられ、式微となったが、徳川家康公は、当社の由緒を重んぜられ、慶長九甲辰年所領丈量の際伊奈備前守忠次をして当社に黒印八石を寄進せられ、寛永四年稲葉佐渡守正成初代城主として越後国糸魚川より入城するや、篤く当社を崇敬せられ、未完の工事を受継ぎ大補修せられたとも云われる。 稲葉正成正勝父子二代に亘りて、真岡在城の折は、殊に当社を尊崇し、神饌料(鏡田芳賀沼外)八石七斗三升七合を寄進せられ、慶安元年九月十七日、三代将軍家光公日光社参に当り、朱印高八石を下され、次いで寛文十年十一月十七日領主稲葉美濃守正則(当時相州小田原在城、小田原侍従と称す)より、先規の神饌料、除地状を下附され、従前より式微となったが、漸く維持を完うし、拝殿の再建工事を進め、氏子民と力を合せ、元禄の始め未完ではあったが現在の如く完成を見た。尚、屋根葺替の外重なる修繕は、宝永二年(本殿彫刻完成)、享保(本殿拝殿鳥居)、宝暦(拝殿)、享和二年(拝殿)、天保十年(本殿)、慶応二年(本殿)、明治二十三年(本殿)、大正三年(拝殿)、昭和二十四年本殿の修理屋根替の工事を致し、更に昭和五十五年より昭和の大修理を目論見氏子崇教者の寄進と栃木県真岡市の補助を合せて昭和六十一年四月九日本殿遷座祭、翌十日竣工奉祝祭を斎行、本殿、拝殿、祝詞殿、神輿殿、両部鳥居、瑞垣、参道等一新して現在に至る。 二宮尊徳、小田原城主大久保忠真の家老宇津家の所領桜町四千石復興の為物部桜町に派遣せられるや、復興事業遂行の為穴川上流大前堰に至り、真岡代官山内総左ェ門に乞い、当大前神社領、東郷陣屋手附を命ぜられ、天保十四年五十七歳より嘉永三年六十四歳まで報徳仕法完成の歳月を大前神社別当神宮寺に仮寓し、陣屋に勤務し或は諸地方の仕法に着手助言を行う。在住の朝夕当社に参拝し、難工事の大前堰と穴川の改修を完了す。 明治六年郷社、同十年八月県社に昇格、明治二十五年八月内務省より、古社寺保存資金下附、昭和九年十一月恩賜幣帛料下賜せらる。昭和二十一年宗教法人令により登記する。宗教法人法施行により継承登記し現在に至る。 −『平成祭データ』− |