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笠石神社
かさいしじんじゃ
栃木県大田原市湯津上429
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旧無格社 |
栃木県大田原市にある。
東北本線・西那須野駅の南東17Kmほどの湯津上に鎮座。
461号線から294号線に入って南下し4.5Kmほどにある
笠石神社前交差点から、西へ30mほど入ると参道入口がある。
参道を北上すると社域の森。
境内入口には神明造の石鳥居が建っている。
鳥居をくぐり境内に入ると、
参道の右手に少しずれて拝殿のような社殿があり、
参道正面に垣に囲まれた宝形造の本殿。
この本殿の中に、御神体である日本最古の碑・那須国造碑が安置されている。
境内右手にある社務所でお願いすると、
祠を開けて那須国造碑を見ることができる。
ただし撮影は禁止。
社務所でその写真が売っており分けていただいたので掲載。
一応、サイト掲載の許可もいただいた。
助 子 曾 照 仰 二 追 永
坤 不 子 一 惟 壬 大 昌
作 改 之 命 殞 子 壱 元
徒 其 家 之 公 日 那 年
之 語 旡 期 広 辰 須 己
大 銘 有 連 氏 節 直 丑
合 夏 嬌 見 尊 物 韋 四
言 堯 子 再 胤 故 提 月
喩 心 仲 甦 国 意 評 飛
字 澄 尼 砕 家 斯 督 鳥
故 神 之 骨 棟 麻 被 浄
旡 照 門 挑 梁 呂 賜 御
翼 乾 旡 髄 一 等 歳 原
長 六 有 豈 世 立 次 大
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旡 童 者 前 中 銘 子 那
根 子 行 恩 重 偲 年 須
更 意 孝 是 被 云 正 国
固 香 之 以 弐 爾 月 造
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那須国造碑は、群馬県にある多胡碑、宮城県にある多賀城碑とともに日本三碑と呼ばれている。
碑文は十九文字八行、百五十二字。
この那須国造碑は花崗岩製で、高さ120cm、幅は40cmほど。
上に笠のような冠石(高さ30cm、幅48cm)を戴いていることから、
当社は笠石神社と呼ばれている。
碑文の意味は、
永昌元年〔中国の元号・則天武后の頃、
日本では持統天皇三年(689)〕四月、
飛鳥浄御原宮の持統天皇から、評(こおり)の督を賜った
那須国造大壱那須直韋提が、
庚子の年〔文武天皇四年(700)〕正月に死去したので
その子意斯麻呂らは、父であり為政者であり、広氏尊胤にして
国家の棟梁である韋提への報恩のため、
この碑を建てたというものらしい。
この碑は、ながく草むらに埋もれていたが
延宝四年(1677)奥州岩城の僧・円順によって発見され
円順から馬頭村梅ケ平の庄屋・大金久左衛門重貞へ伝えられ
天保三年(1683)馬頭を訪れた領主・水戸光圀公に言上された。
貞享四年(1687)再度来駕した光圀公が
儒臣・佐々宗淳(水戸黄門の助さんのモデル)に命じて
石摺をとらせて解釈させ、その重要性を知るに至り、
元禄四年(1691)堂を建てて碑を納め
御神体として祀られたのが当社の起源であるという。
この時、光圀公によって台石の上に載せられたらしい。
碑文の表面が艶々しているのは、
碑面を下にして埋まっていたので風化しなかったかららしい。
境内の左手に境内社の祠がいくつかあるが詳細は不明。
『栃木県神社名鑑』には稲荷神社の名が載っているので
一番大きな境内社は稲荷だと思う。
境内入口 |
社域の森 | 鳥居 |
境内と拝殿 |
境内社 | 中門 |
那須国造碑を納めた本殿 | 本殿 |
笠石神社縁起
祭神の略歴国造(後の郡長に当る)の官職にあって、名を韋提と云った。位階は追大壱(天武天皇の朝に定められた四十八階の中で、此の位は今日の正六位に当る)で姓(家柄の尊卑をあらわすもので、直の姓は多く国造に賜った)は直であった。大化の改新により、那須国が郡に改められたので、永昌元年(唐の則天武后の時の年号で、我が朝持統天皇の三年に当る)四月、飛鳥浄御原大宮則ち持統天皇より那須郡長に任命された。そうして韋提は文武天皇の四年(約一千三百年前)正月二日に死去された。依って子息の意斯麻呂が新羅の帰化人(此の碑文の作者)と協力して、此の墓碑を建てた。 韋提は豊城入彦尊の子孫で、博愛の心が深く、新羅の渡来人をいたわって芦野町唐木田村に土着させて、一生安楽に世を送らせた。それで韋提の歿後、其の恩願を受けた渡来人等が、此の頌徳碑を立てた。碑文の中には、大学者が研究しても解しかねる隠語の文句(銘夏より助坤まで)があり、又碑文の書体は専門家が見て中国の六朝、主として北魏時代の書風で非常に勝れたものだというから、学者で、かつ、能筆の人が文を書いたのである。 碑の発見 日本三古碑中(本碑と、上野国多古碑、陸前国多賀城碑)一番古く、一番由緒の深い此の碑が、何時の頃よりか草むらの中に埋れて、世に知る人もなかった。唯、里民は、碑の頭上に笠石があるので、此の石を降したり冠せたりして、雨乞をしたのに効験があったと云う。然るに貞享四年、水戸黄門光圀が馬頭町梅が平の大金重貞から、該碑の話を聞かれ、保全の恩召を以て、元禄四年に御堂を建立し、現在の如く安置し奉ったものである。明治四十四年、早く国宝に指定され、昭和二十七年、新国宝となった。 −『平成祭データ』− |