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辛科神社
からしなじんじゃ
群馬県高崎市吉井町神保435  Zenrin Data Com Maps display !!


抱き茗荷

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旧郷社

御祭神
速須佐之男命 配祀 五十猛命
合祀
金山毘古命 品陀和氣命 中筒男命 伊邪那美命 大山津見命
建御名方命 八坂刀賣命 大物主命 大日靈命 宇迦之御魂命
木花佐久夜毘賣命 天兒屋根命 市寸嶋比賣命 菅原道眞 鹽光清

群馬県高崎市にある。
上信電鉄・西吉井駅の南2Kmほどの神保に鎮座。
254号線を越えて南へ入ると、上信越自動車道の手前に境内がある。

境内入口は南東向き。
「多胡郡総鎮守 辛科神社」と刻まれた社号標と
新しい白い鳥居が立っている。

鳥居をくぐると、右手に手水舎。
参道を進み、階段を上ると随神門。
随神門には金属製の狛犬が安置されている。

随神門をくぐると、社殿のある境内。
正面に入母屋造の拝殿があり、
拝殿の後方に美しい彫刻のある流造の本殿。
拝殿の扁額には「郷社辛科神社」。

境内左手には神楽殿。
社殿の右手には、多胡碑のレプリカと境内社。

参拝は晩秋の十一月。
空気は冷たく、日射しは暖かい、平日の午後。

社伝によると、大宝年間(701〜)、
朝鮮半島の新羅系渡来人によって創祀された神社で、
『上野国神名帳』に「従二位 辛科明神」とある古社。
よって祭神は新羅系と考えられる須佐之男命と御子神の五十猛命

和銅四年(711)三月、
片岡郡、緑野郡、甘楽郡のいくつかの里を分割して
新たに多胡郡を設置した際、多胡郡総鎮守として崇敬されてきたといい、
辛科(カラシナ)の神号は、甘楽郡から分割された韓級(カラシナ)郡に由来する。
鎮座地名、および社家の神保は、「神領」の意味だろうか。

多胡郡が出来た記念碑が吉井町に残る多胡碑。
碑文に刻まれた、多胡郡を給わった「羊」は、
「羊太夫」と呼ばれた当地の豪族のこと。
和銅年間に武蔵国秩父で銅を発見して富み栄えたという。

また、八束脛という手足の長い従者を使って
空を飛び、驚くほどの速さで大和へ通っていたとも。
ある日、八束脛が昼寝をしていた時に、
羊太夫が悪戯して、八束脛の脇の下の黒い羽のようなものを抜いてしまい、
大和へ通えなくなってしまったために、
羊太夫は謀反の疑いをかけられて、都から派遣された軍に滅ぼされたという。
この時、八束脛は金の蝶に化して月夜野の石尊山の洞窟へ逃れ、
その遺跡に八束脛神社が祀られている。

安中市に羊太夫を祀ったと思われる羊神社があるが、
現在の祭神は、天兒屋根命となっている。

境内の由緒書きによると当社の神紋は抱き茗荷。
社家・神保家の裏家紋だそうで、表家紋は引両紋。

社殿の右手の境内社は、左から
八王子社、石神社、若宮社、大山咋社、
稲荷社、八幡社、南方社。
由緒書きによると金山社もあるようだ。


社頭

鳥居

随神門

金属製の狛犬(左)

金属製の狛犬(右)

境内

拝殿

本殿

神楽殿

社殿

境内

多胡碑レプリカと境内社

多胡碑レプリカ

境内社の隣りには奉納された多胡碑のレプリカ。
石の雰囲気は実物と少し違うけど、
刻まれている文字は、実物の拓本とほとんど同じだ。


レプリカの文字

多胡碑拓本

多胡郡総鎮守
辛科神社之由来
一、鎮座地群馬県多野郡吉井町大字神保
  字宮西甲435(旧多胡郡神保村)
二、鎮座社伝によれば当地域に居住していた朝鮮 半島からの渡来人により大宝年間(七〇一〜四) に鎮座創建される
三、祭神速須佐之男命五十猛命
相殿神金山比古命品陀別命
中筒男命大山津見命
伊邪那美命建御名方命
大物主命八坂刀売命
大日霊命宇迦之御魂命
木花佐久夜毘売命天児屋根命
市寸嶋比売命菅原道真公
塩光清
四、沿革
和銅四年(七一一)多胡郡設置に伴い多胡郡総 鎮守となる神名の辛科 多胡郡設置の 際に甘樂郡から分別された韓級郷の「カラシナ」を 伝えている
建久八年(一一九七)源頼朝が懸仏奉納、 大勧進惟宗入道 小勧進清原國包の銘あり
永仁六年(一二九八)同年書写の上野國神名帳の 多胡郡廿五座の筆頭神に従二位辛科明神と見える
延文三年(一三五八)頃書かれた神道集に多胡郡鎮 守辛科大明神とみえる
寛永十三年(一六三六)徳川家光社領九百坪を免租とする
寛文元年(一六六一)旗本倉橋内匠之助久盛が本殿 再建
貞享元年(一六八四)から幕末までの神保領主畑本溝口家の 八十朗が畑地八百坪を寄進する
享保十三年(一七二八)吉田家の宗源宣旨を以て正一 位辛科大明神の称号を授けられる
慶應二年(一八六六)太々神楽の奉納始まる(現在退転)
明治五年(一八七二)郷社嘱託となる
明治二四年(一八九一)県内の古社として内務省より保存 資金五拾円を下賜される
明治三九年(一九〇六)郷社に列格する
明治四十年(一九〇七)大字多胡鎮座村社辛科神社、 無格社井池神社、大字塩鎮座村社浅間神社、 大字高鎮座村社稲荷神社、無格社琴平神社を合祀
昭和二八年(一九五三)宗教法人辛科神社となる
五、社格郷社
六、神格上野國神名帳從二位辛科明神とある
七、境内末社八王子社、石神社、若宮社、 大山咋社、稲荷社、八幡社、 南方社、金山社
八、社殿
本殿流造 寛文元年(一六六一)に旗本 倉橋内匠之助久盛が建立
拝殿入母屋造 享保十五年(一七三〇)建立
随神門切妻屋根八脚門 寛政九年(一七九七)建立
鳥居平成七年再建
九、祭典及特殊神事
春季例大祭四月九日
秋季例大祭十月九日
星祭一月六日
御筒粥神事一月十五日
みそぎ流神事七月三十一日
御供米神事旧暦十二月初午日に多胡郡 二十七ヶ村を神官が御幣を立て 捧げ廻り御供米を納めさせた
明治維新後は秋季例大祭に 神馬を奉納、大東亜戦争後は 金納に変化している
御鎮神事旧暦二月に斎行
明治維新後廃絶
十、社宝
境内地出土須恵器古墳時代
境内地出土土師器古墳時代
直刀一振古墳時代
懸仏一面鎌倉時代
大黒面一面室町時代
辛科大明神縁起一巻江戸時代
神輿一座江戸時代
金幣江戸時代
御神号掛軸一幅江戸時代
梓弓年代不詳
十一神名 からしな
和銅六年以前韓科続日本紀和銅四年(七一一)三月辛亥 六日の条に割上野國甘樂郡織裳、韓科、 矢田、大家、緑野郡武美、片岡郡山等 六郷別置多胡郡とある
和銅六年以後辛科和名類聚多胡郡の項に「辛科和良 之奈」とある
上野国分寺出土瓦銘「辛科子庭人」
一二社家 神保氏
鎌倉時代「吾妻鏡」承久三年(一二 二一)の承久の変の際の宇治合戦に上野 國の鎌倉幕府御家人として神保与一、 与三、太郎の名が見える
文和三年(一三五四)の「足利義詮御教書 案」に多胡郡地頭職として神保太郎左衛門 尉の名がある。家紋は○に縦二引
一三神紋 抱茗荷(社家神保氏裏家紋)
一四境内地
社家神保氏の館跡。単郭城。西南、 西北、北東。東南等に濠・土塁の 一部が残存する

−境内由緒書を参考に修正記述−



吉井町指定重要文化財
辛科神社(旧社格郷社)
当社は須佐之男命外一六柱を祭祀大宝年 間の創立和銅四年多胡郡新設に伴ない郡 の総鎮寺と成す 春日造の本殿流破風造 の拝殿及び権現造の随神門は明治二五年 古社寺保存法の指定を受けている。特殊 神事として筒粥神事(一月十五日)みそ ぎの神事(茅の輪祭七月三一日)あり  頼朝公奉納の御神鏡(懸仏)出目上満作 大黒面(能面)外一六点の宝物を有す。 境内地一九〇一坪此の附近古墳群を有し 弥生式文化時代の出土品多し

−境内案内−

当社の北東5Kmほど、鏑川の近くの吉井町池に多胡碑がある。
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多胡碑記念館のそばの公園の中に、
多胡碑を納めた鞘堂があり、鞘堂には入れないけれど、
ガラス扉の中に実物の多胡碑を見ることができる。
多胡碑の前には「羊さまの榎」と呼ばれる榎がある。

多胡碑は、栃木県にある那須国造碑、宮城県にある多賀城碑とともに日本三碑と呼ばれ、
また、高崎市の山ノ上碑、金井沢碑とともに上野三碑とも呼ばれている古代の石碑。

多胡碑の高さは百二十六センチ。
吉井町南部に産出する軟質の牛伏砂岩(通常多胡石)で 造られている。
楷書体で刻まれた六行八十文字は、
和銅四(711)年の多胡郡の設置について述べたもの。
片岡郡山名、緑野郡武美、甘楽郡折茂・辛科・矢田・ 大家を
各郡から分割して多胡郡とし、「羊」に統治させるということだろうか。


多胡碑鞘堂

羊さまの榎

 
位 太 宣 成 良 弁
石 政 左 多 郡 官
上 官 中 胡 并 符
尊 二 弁 郡 三 上
右 品 正 和 郡 野
大 穂 五 銅 内 國
臣 積 位 四 三 片
正 親 下 年 百 
二 王 多 三 戸 郡
位 左 治 月 郡 緑
藤 大 比 九 成 野
原 臣 真 日 給 郡
尊 正 人 甲 羊 甘
  二   寅


特別史跡 多胡碑
 多胡碑は栃木県にある那須国造碑、宮城県にある多賀城碑とともに日本三碑と呼ばれて いる古代の石碑である。また高崎市の山ノ上碑、金井沢碑とともに上野三碑とも呼ばれる。
 碑の高さは百二十六センチで、吉井町南部に産出する軟質の牛伏砂岩(通常多胡石)で 造られている。
 その書体は楷書体で中国の六朝風を遺すといわれており、古くより多くの書家に愛好され、 六行八十文字の文字の彫りも味わいあるものとして評価されている。
 土地の人は多胡碑を『ひつじさま』と呼び信仰の対象としてまつり、今日まで守ってきた。 また、文面に見える『羊』にちなんだ『羊太夫』の伝説は、古くから語り継がれて 親しまれている。
弁官符す。上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡
并せて三郡の内、三百戸を郡と成し、羊に給いて
多胡郡と成せ。和銅四年三月九日甲寅
に宣る。左中弁・正五位下多治比真人。
太政官・二品穂積親王、左大臣・正二位
石上尊、右大臣・正二位藤原尊。
(群馬県史通史編2による)
 右の碑文は、和銅四(七一一)年の多胡郡の設置について述べたもので、ほぼ同様の 内容の記事が正史の『続日本紀』和銅四年三月六日の条にも見えている。
 『続日本紀』の記事によって碑文を補うと、分割された各郡の里(郷)名がそれぞれ 片岡郡山部(山名)・緑野郡武美・甘良(甘楽)郡織裳(折茂)・韓級(辛科)・矢田・ 大家であることがわかる。碑文は字数などの制約があり、『給羊』のように解釈のむず かしい語句もある。
 多胡碑は当時のこの地域のありさまを今日に伝える、全国的にも稀な石碑である。
昭和二十九年三月二十日指定
平成十二年三月九日設置

−案内板−



【 辛科神社 (吉井町) 】

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