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秩父神社
ちちぶじんじゃ
埼玉県秩父市番場町1−1
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式内社 武蔵國秩父郡 秩父神社 |
埼玉県秩父市にある。
秩父鉄道秩父本線・秩父駅のすぐ西側に鎮座。
南側の道路に面して境内入口の鳥居が立ち、
「國幣小社 秩父神社」の社号標が右手に立っている。
鳥居をくぐると、
右手に社務所があり、左手は駐車場を兼ねた境内。
正面に数段の石段があり、朱に黒瓦、金の装飾を付けた神門。
神門をくぐると正面に、権現造りの社殿。
拝殿や本殿には、多くの彫刻が施され、
丁寧な説明板が設置されている。
青空は見えない、やや曇天の土曜日の午後の参拝。
陽射しが無いので、社殿の写真が鮮やかさに欠けるが、
実際に、一つ一つ見ていくと、いろいろな妄想を駆り立てられて面白い。
それぞれの彫刻に意味があり、謂れがあるためか、
当社のお守りも、(購入はしていないが)種類が多いようだ。
購入したのは、当社の御朱印帳で、
紙が白い和紙ではなく、黄色みを帯びたもの。
僕は、初めて見たが、他社にもあるのだろうか。
そういえば、東照宮内にある輪王寺の御朱印帳も少し紙質が違っていたなぁ。
当社は、武甲山(1304m)の北に位置し、
武甲山を遥拝する聖地であったという。
当社の創祀は、崇神天皇の御代。
当地の国造に任命された、八意思兼命十世孫である知知夫彦命が、
祖神を祀ったことにはじまるとされている。
これは、「先代旧事本紀」の「国造本紀」によるもの。
その後、允恭天皇の御代、知知夫彦命九世孫の知知夫狭手男が
知知夫彦を合わせ祀ったという。
ということで、祭神は、八意思兼命と知知夫彦命。
ただし、異説が幾つか存在する。
祭神に関しては、大きく五説あり、
思兼命、知知夫彦命、思兼命の御子・天下春命、大己貴命、秩父大神。
明治以前は、秩父妙見宮、大宮妙見宮と称していた神社だが、
その経緯は、嘉禎元年(1235)九月、社殿に落雷があり、
その再建時に、妙見菩薩を合祀したという。
その後、妙見信仰のため、本来の秩父神社の名が後退したが、
明治の神仏分離によって、古名に戻し、現在に至る。
祭神の天之御中主神は、その妙見を意味する神。
秩父における妙見信仰の始まりは、
初代秩父氏である、平将常が奉じたものらしい。
境内右手に、東照宮、天満天神宮、枉津日社(枉津日神)。
境内左手に、柞稲荷神社、諏訪神社、、日御碕宮。
「柞」は、「ははそ」と読むようで、「母巣」とも書き、
当社の社叢は、「柞の森」と呼ばれている。
その柞稲荷神社の前に、赤みがかった巨石がゴロンと転がっている。
特に注連縄が施されているわけでもなく、案内板も無かったが、
これは「生き石」とも呼ばれている「御神降石」。
本殿の左右に、神宮が祀られている。
本殿右に皇大神宮、左に豊受大神宮。
本殿後方には、天神地祇社と称し、
全国の一の宮やそれに準ずる大社が祀られている。
ここに詣でると、全国一の宮を遥拝したことになるらしいが、
甲斐の浅間はどうなるのだろう。
左から、
埴山大神・
田村大神・
石上大神・
軻遇突智大神、
若狭比古大神・
大物忌大神・
罔象女大神・
句句津馳大神、
津島大神・
真墨田大神・
金山大神・
木船大神、
天手長大神・
和多津美大神・
杵築大神・
枚聞大神・
丹生大神、
南方大神・
安房大神・
中山大神・
安任大神・
箱崎八幡大神、
砥鹿大神・
都々古和気大神・
白山比咩大神・
籠大神・
西寒多大神、
伊射波大神・
寒川大神・
香取大神・
倭文大神・
鹿児島大神、
松尾大神・
都佐大神・
春日大神・
粟鹿大神・
伊和大神、
中央に天神地祇社、さらに左に、
加茂大神・
大鳥大神・
鹿嶋大神・
出雲大神・
吉備津大神、
三輪大神・
都波岐大神・
二荒大神・
玉前大神・
渡津大神、
宇佐八幡大神・
都濃大神・
玉祖大神・
水無大神・
宇倍大神、
高良大神・
高瀬大神・
住吉大神・
建部大神・
由良姫大神、
浅間大神・
大麻比古大神・
枚岡大神・
貫前大神・
龍田大神、
氣多大神・
熊野大神・
敢国大神・
氷川大神、
弥彦大神・
厳島大神・
阿蘇大神・
氣比大神、
廣瀬大神・
三島大神・
物部大神・
事麻智大神。
境内には銀杏の紋、賽銭箱には菊の紋が付いていたが、
『官國幣社 例祭之由来と神紋』には、
正紋が葵、更紋が銀杏と書かれている。
葵の紋は、気づかなかったが、徳川家康公による社殿寄進時に付けられたらしい。
鳥居 | 境内 |
神門、神門の奥の社殿が悲しそうな顔に見えた |
見事な彫刻の拝殿 | 拝殿 |
境内社殿 |
本殿 | 本殿、後方から |
本殿後方の天神地祇社 |
御神降石 | 乳銀杏 |
枉津日社・天満天神宮・東照宮 |
皇大神宮 内宮 | 豊受大神宮 外宮 | 乳銀杏 |
日御碕宮 | 柞稲荷神社 | 諏訪神社 |
秩父神社
当社は、市の中央柞の森に鎮座し、秩父地方の総社であり、
延喜式神名帳にものっている、二千有余年の歴史をもつ関
東屈指の古社であります。人皇十代、崇神天皇の御代、知知夫彦命が、その祖神八意思兼命を奉祀したのに始まるといわれております。
−境内案内板− 御祭神
御由緒
当社のご創建は平安初期の典籍「先代旧事紀−国造本紀−」
によれば、人皇第十代の崇神天皇の時代に、八意思兼命を祖と
する知知夫彦命が、知知夫国の初代国造に任命され大神を祀っ
たことに始まるとされており、武蔵国成立以前より栄えた知知
夫国の総鎮守として現在に至っています。元慶二年(八七八年)には神階正四位下に昇叙され、延長五 年(九二七年)に編纂された「延喜式」にも掲載されるなど、 関東でも屈指の古社のひとつに数えられています。また、中世 以降は関東武士団の源流、秩父平氏が奉じる妙見信仰と習合し 長く「秩父妙見宮」として隆盛を極めましたが、明治の神仏分 離令により秩父神社の旧社名に復しました。 現在の権現造りのご社殿は、天正二十年(一五九二年)に徳 川家康公が寄進されたもので、江戸時代初期の建築様式をよく 留めていることから、埼玉県の有形文化財に指定されています。 また、毎年十二月三日に行われる例大祭は「秩父夜祭り」とし て国の重要無形民俗文化財に指定され、京都の祇園祭り、飛騨 高山祭りと共に日本三大曳山祭りに数えられ全国に知られてい ます。 古くこのお祭りは妙見祭とも呼ばれ、妙見様の星祭りとして 親しまれてきました。妙見様のご利益は、国土守護、除災招福、 貧窮を救い、一切の諸願を満たしてくれる天女のような神様で あり、庶民の様々な願いを叶えてくれるご神徳があるとされて います。 −拝殿前案内板より抜粋− 天神地祇社について
平安時代から中世にかけて、朝廷の「
二十二社」奉幣制度と共に、全国の各国
毎に「一ノ宮」「総社」の運営、祭祀の
尊重が図られるようになりました。かつ
て秩父地方は、知知夫国として独立した
存在でありましたが、その当時には既に
武蔵国に属しており、現在の東京都府中
市に鎮座致します大国魂神社(別称 六
所宮)が武蔵国の総社とされ、その第四
ノ宮に当社のご祭神が奉祀されました。古くから当神社の境内社の一つとされ て参りましたこの天神地祇社は、全国の 一ノ宮(計七十五座)をお祀りしていま す。これほど多くの一ノ宮の神々を、境 内社としてお祀りしている事例は全国的 にも珍しいものと思います。 何故、このような形でお祀りされたの かは定かではありませんが、一説による と当社のご祭神である八意思兼命が 多くの神々の意見を纏められ、折々のご 聖断を下される神様として古典神話の中 で活躍されていることから、たくさんの 一ノ宮の神様がお祀りされたとも云われ ています。ともあれ、これも秩父の歴史 風土に深く根差した独自の信仰の表れで あると云えるかもしれません。 この天神地祇社それぞれのご神前にお 参りすることによって、合せて全国の一 ノ宮を遥拝することになりますので、ご 案内申上げます。 −境内案内板− |
本殿右手(東側)には、左甚五郎作と云われる青龍の彫刻がある。
しばしば抜け出して暴れるため、鎖で固定されており、
『つなぎの龍』と呼ばれている。
本殿東側の『つなぎの龍』 |
「つなぎの龍」−左甚五郎作−
その昔、秩父札所十五番小林寺近くに「天ヶ池」
という池がありました。その池に住みついた龍があ
ばれた際には、必ずこの彫刻の下に水溜りができて
いたことから、この彫り物の龍が鎖でつなぎ止めた
ところ、その後、龍は現れなくなったという不思議
な伝説が伝わっています。ご本殿東側の鎖でつながれた青い龍の彫刻こそ、 この伝説に語られた「つなぎの龍」の姿なのです。 昔から日本人は、家や地域の四方を青龍、朱雀、 百虎、玄武という神使が守っていると信じてきまし た。この彫刻も、当社の東北(表鬼門)を守護する 青龍の姿を、名工左甚五郎が社殿彫刻に施したもの なのです。 −境内案内板より抜粋− |
本殿の後方(北側)には、『北辰の梟』の彫刻。
体は南を向き、頭だけが振り返った形。
梟は、智恵の神であるということから、
祭神・思兼神の象徴とも思われているようだ。
ちょっと気になること。
本殿後方(北方)には梟の他に、数羽の鳥が描かれ、
拝殿中央部(南方)には亀の彫刻がある。
東が青龍なら、北は玄武(亀)、南が朱雀(鳥)のはずだが、
南北が逆になっている気がするのだが。
四神とは無関係なのかもしれない。
本殿の左手(西側)には、陽気な3匹の猿の彫刻がある。
本殿後方の『北辰の梟』 | 本殿西側の『お元気三猿』 |
「北辰の梟」について
ご本殿北側中央に彫刻された梟は、「北辰
の梟」といって、菱川師宣描く有名な浮世絵
の「見返り美人」よろしく、体は正面のご本
殿に向き、頭は正反対の真北を向いて昼夜を
問わずご祭神をお守りしています。当社のご祭神である妙見様は、北極星を中 心とした北辰北斗の星の信仰で、この梟の見 ている方角に妙見様が出現することからも、 ご祭神を特に縁りの深い瑞鳥であると言える でしょう。 洋の東西を問わず、梟は智恵のシンボルと 考えられており、当社のご祭神 八意思兼命 が智恵の神として崇敬の篤いことと重ねて、 思慮深い神使として社殿北面に施されたものと 思われます。 −本殿後方案内板より抜粋− 「お元気三猿」について
三猿といえば日光東照宮が有名ですが、同
じ徳川家縁りの御社であるにも拘わらず、当
社の三猿は日光とまったく違った表情をして
います。日光が古来の庚申信仰にちなんで「見ざる ・言わざる・聞かざる」なのに対し。当社の 三猿は「よく見・よく聞いて・よく話そう」 ということで、現代の情報化社会にふさわし く俗に”お元気三猿”として皆様に親しまれ ています。 当社のご祭神である妙見様は、神仏の中心 にあって、人間の元気な命を司る神様として 永く信仰されてきたことから、特に不老長寿 のご利益があると言われています。 −本殿西側案内板より抜粋− |
本殿と拝殿をつなぐ幣殿(というのかな)の側面西側に
瓢箪から瑞雲とともに出現する駒の彫刻。
拝殿の正面左手には、『子育ての虎』が彫刻され、
これも左甚五郎作と云われている。
幣殿西側の『瓢箪から駒』 | 拝殿左手の『子育ての虎』 |
「瓢箪から駒」について
秩父夜祭の神様は、お神輿ばか
りか御神馬に乗ってもお旅所にお
渡りになることから、毎年十二月
三日には本物の馬二頭が奉納され
御神幸にお供をしています。それ
にちなんで、当社では「妙見御神
馬守り(勝守り)」を授与していよく知られている馬に関する諺 に、「瓢箪から駒が出る」という のがありますが、意外なところか ら意外な発見や出会いがあるかも しれないということで、まさに開 運招福を意味するところです。 当社の例大祭である秩父夜祭で は、「ホーリャイ ホーリャイ」 と囃して屋台を動かしますが、こ れはそもそも当社を仙人が住むと いう伝説の島<蓬莱山>に準えて の呼び方なのです。 −境内西側案内板より抜粋− 「子宝 子育ての虎」左甚五郎作
未だ群雄割拠の戦国時代、当社は甲斐の武
田信玄公の手により、永禄十二年(一五六九
年)に焼失の後、徳川家康公のお力により現
在のご社殿が再建されました。家康公は、寅の年 寅の日 寅の刻生まれ ということで、虎にまつわる物語が少なくあ りません。それにちなんでか、当社の拝殿前 は四面にわたってすべて虎の彫り物が施され ています。 特に拝殿正面左より二つめの、子虎とたわ むれる親虎の彫刻は、名工左甚五郎が家康公 の威厳とご祭神を守護する神使として彫刻し たものと伝えられています。当時の狩野派で は、虎の群れの中に必ず一匹の豹を描くこと が定法とされていたことから、母虎があえて 豹として描かれているので特徴的です。 −拝殿前案内板より抜粋− |