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志賀理和氣神社
しがりわけじんじゃ
岩手県紫波郡紫波町桜町字本町川原1
御社はとまれかくまれ 志賀理和気 我が十郡の国のみをさき
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式内社 陸奥國斯波郡 志賀理和氣神社 |
盛岡と花巻の中間地点にある、岩手県紫波町にある。
紫波町役場の南、運動公園のそばで、北上川の西岸に鎮座。
参道入口に赤い鳥居が立ち、参道が東へ延びている。
入口には、「南面の桜」がある。
参道を歩くと、茅の輪が設置された鳥居。
境内は広く、境内社や石祠も幾つかあるが、
当社で有名なものは、「赤石」と呼ばれる霊石。
以前は本殿後方にあったが、現在は、境内右手に移されている。
斯波孫三郎詮直公が北上川で見つけた紫の石。
この霊石によって、水波が紫色になったので、地名が紫波という字になった。
通称、赤石神社、赤石さんと呼ばれる神社。
延暦23年(804)、坂上田村麿によって、
東北開拓の守護神として、香取・鹿島の二神を勧請されたのが創祀といわれている。
では、「志賀理和氣」とはどういうことなのだろうか。
志賀理和氣という人あるいは神を祀ったのが本来の姿ではなかったかとも思う。
社名は、「しがりわけ」「しがりわき」「しかりわけ」など、
いろいろと読み方がある。
日本最北の延喜式式内社とされているが、
出羽国山本郡副川神社の論社である、秋田八郎潟の副川神社の方が北にある。
そちらは論社なので、確定している式内社としては、最北ということか。
地名の紫波は、もとは「志和」と書かれていたが、
当社の名がその起源とする説もある。
境内入口に「南面の桜」がある。
元弘のころ、当地に下った藤原頼之と、
河東の領主川村少将の娘・桃香は、相思相愛となり、
ここに桜を植えて、爛漫の春を夢見ていた。
しかし、命により、頼之は都へ上ることになり、
二人は再会を固く誓って分かれた。
やがて、植えた桜は見事に咲いたが、
不思議にも、すべて花は南を向いて開いていた。
桃香の心が、桜に宿ったものとされている。
参道入口の赤鳥居 | 南面の桜 |
参道 | 参道鳥居に茅ノ輪 |
境内 |
社殿 | 赤石天満宮、坂下稲荷神社 |
拝殿 | 拝殿 |
霊石(赤石) | 本殿 | 小野藤稲荷神社 |
由緒
延暦二十三年(804)坂上田村麻呂が東北開拓の守護神である香取、鹿島の二神を当地の鎮守として斯波加里の郷鳰が磯野(現在地)に勧請合祀したと伝えられている。爾来、東北六郡を領した藤原秀衡の族、樋爪氏を始め、高水寺城主斯波氏など当地を領した累代領主の厚い尊崇を受けた。天正年間(1573−1592)南部氏がこの地を領すると殊のほか崇敬の誠を捧げ、第三十三代利視公は「御社はとまれかくまれ志賀理和気我が十郡の国のみをさき」の和歌を献じ、社殿を造営するなど深く敬仰した。 さらには近江商人、井筒屋など豪商も霊験あらたかな神として篤く信仰した。境内に方三尺余の赤石があるところから赤石神社の通称で親しまれる日本最北の延喜式内社である。 −『平成祭データ』−
−案内板より− |
境内右手の赤石 |
「赤石」の由来
天正(一五七三−一五九一)の昔、郡下六
十六郷の領主斯波孫三郎詮直公が北上川で遊
覧の折 川底に赤石の大石を見て紫色の水波
に漂ようその美しさに感有って一首を詠じた
という。
けふよりは
紫波と名づけん この川の
石にうつ波 紫に似て
この地方はこれまで子波、斯波、斯和、又は志和
と地名の変遷をみているが、以来「紫波」と改ま
り当社もまた通称赤石大明神赤石神社・赤石
さんと親しまれ今日に至った。
詮直公によって引き揚げられた「赤石」は爾来
御本殿の後方に奉安され、霊妙あらたかなる
霊石として崇拝されて来た。
昭和五十九年十一月当社御創建壱千百八
拾年記念事業で現地に奉遷されたものである。
−案内板より− |