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山口大神宮
やまぐちだいじんぐう
山口県山口市滝町4−4
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旧県社 |
山口県山口市にある。
鴻の嶺の東麓、山口県庁の西に境内があり、境内入口は東向き。
入口の鳥居に「山口大神宮」と書かれた扁額が掛けられている。
社号標は「山口大神宮」と「多賀大社」の二本ある。
当社境内にある多賀神社は、山口大神宮とは別の神社らしい。
鳥居をくぐり参道階段を進むと、馬舎に神馬像。
その先、右手に末社・高嶺稲荷神社があり、
相殿に御門守神社が祀られている。
参道階段をさらに上ると多賀神社がある。
元は東滝に鎮座していた元郷社で、大内氏により勧請されたもの。
昭和二十四年、現在地に遷座された。
多賀神社から右手に階段を上ると当社社殿のある境内。
広くなだらかな斜面に、外宮と内宮の社殿がある。
当社へ参拝したのは平成十二年。
案内によると、この年に式年遷宮が行われたようで、
白木の社殿は新しく美しい。
左手前の外宮の前には、籾置岩。ここで豊作が祈願されたらしい。
外宮の前に、外宮別宮の多賀宮(荒御魂、配祀伊吹戸主命)の小祠。
右手奥の内宮の前には、左・内宮摂社恵美須社(事代主命)と
右・内宮別宮荒祭宮(荒御魂、配祀 瀬織津姫命)の小祠。
外宮の右手、内宮の左手には式年遷宮以前の古殿地がある。
『山口県神社誌』の遷宮以前の境内図では、
外宮が右手前で、内宮は左奥になっている。
当国守護の大内義興が、永正十五年(1518)、
管領代として在京中、後柏原天皇の勅許を賜り、
高嶺東麓に伊勢神宮の御分霊を勧請したのが当社の起源。
『平成祭データ』では、十六年に内宮造営、十七年に外宮造営とあるが
『山口県神社誌』では、十六年に外宮造営、十七年に内宮造営とある。
当初は、鎮座地名から高嶺神明と称していたが、
その後、後柏原天皇より「高嶺大神宮」の御宸筆を賜り、
さらに、後陽成天皇より「伊勢」の勅額を賜って、今伊勢と称していた。
伊勢信仰の盛んであった江戸時代には、
西国の九州・中国各地からの参拝も多く、
「西のお伊勢さま」と呼ばれて広く信仰されていた。
また、伊勢の神宮にならい、
当社でも二十一年目毎に式年遷宮が行われていた。
明治六年(1873)郷社に列し、
昭和四年(1929)高嶺神社と改称して県社に昇格。
昭和二十二年(1947)、山口大神宮と改めた。
入口の鳥居 | 神馬像 |
神楽殿 | 参道鳥居 |
境内社殿、左手前に外宮、右奥に内宮 |
外宮別宮と外宮 | 内宮摂社、内宮別宮と内宮 |
多賀神社、脇に安産石 | 高嶺稲荷神社 |
外宮前の籾置岩 | 参道に岩も祀られていた |
多賀社脇の御嫡神社 | 高嶺稲荷社横の小祠 | 石敢当 |
当社の西にある鴻の嶺には、
大内氏最後の当主大内義長が築いた高嶺城跡があり
当社境内から登山道が続いている。
その途中に、当社奥社の岩戸社があるようなので登ってみた。
参道にはいくつかの小祠があり、
しばらく登ると、岩の穴があったのだが、これが岩戸社だろうか。
そこからさらに登ると、山頂の高嶺城跡に到着する。
岩戸社か? | 鴻の嶺山上の高嶺城跡 |
山口大神宮は伊勢の神宮(三重県伊勢市)のご分霊を勧請したお宮で、古くより「西のお伊勢さま」と呼ばれ西国では広く信仰されている神社である。 当宮を勧請したのは、当地の領主で足利幕府の管領代を勤めた大内氏第三十代の当主大内義興で、第百四第後柏原天皇の勅許を得て永正十五年(一五一八)十一月宮地を高嶺東麓山紫水明の地(現在地)を選んで社殿の創建に着手、翌十六年十一月内宮を、十七年四月には外宮を建立し、同年六月二十九日に鎮座祀りを行った。 当初は社号を「鴻嶺神明」と呼び、後柏原天皇より「高嶺大神宮」、後陽成天皇から「伊勢」の勅額を賜ってからは「高嶺大神宮」とか「山口伊勢」「山口今伊勢」とか称せられていた。 昭和三年十月、社格を県社とし「高嶺神社」と称することとなったが、昭和二十二年七月現在の「山口大神宮」と改称した。 当宮の内宮・外宮は伊勢の神宮にならって二十年目ごとに造り替えることになっており、現社殿は昭和三十五年に造営したものである。 −『平成祭データ』− |