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桃澤神社 下社
ももざわじんじゃ しもしゃ
静岡県沼津市青野504
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式内社 駿河國駿河郡 桃澤神社 |
静岡県沼津市にある。
沼津駅の北西7〜8Kmの青野に鎮座。
沼津駅から北上し、22号線に入って西へ5Kmほど。
青野あたりで北へ300mほど入ると境内がある。
境内は愛鷹山(1188m)の南麓。
社前に白くて新しい鳥居が立っていた。
鳥居をくぐり階段を上ると社殿のある境内。
境内の左手に土俵があり、境内奥に拝殿。
拝殿の後方に流造の本殿が接続された形式。
砂利の境内は清浄で、社殿もスッキリと纏まって落ち着く境内。
とても天気の良い午後、真っ青な空の下の参拝で気持ちが良い。
愛鷹山山頂に奥宮(上社)があり、当社は里宮(下社)にあたる。
参拝した時には、中宮(中社)の存在を知らず、
案内書きも写真だけ撮って、良く読まなかったので
近くにある中宮には参拝しておらず後悔している。
案内にある境内地の広さは、
中宮は当社の四倍ほどあるということだが、残念。
『式内社調査報告』に載っている当社の写真では
社殿はトタン板で覆われていて寂れた感じだが、
最近建て替えられたのだろうか。
「愛鷹山縁起」によると、第七代孝霊天皇元年(紀元前290年)の創祀。
一説には、奈良時代、元正天皇霊亀三年(717年)の創祀であると伝えられる古社。
通称は愛鷹明神で、
式内社・桃澤神社の論社の一つ。
ただし、愛鷹山頂の愛鷹明神と、桃澤神社は本来別の神社であったが
いつの頃からか、桃澤神社の相殿に、愛鷹明神が合祀されたらしい。
察するに、愛鷹山麓の沢の多い地域(百澤)に祀られていた桃澤神社が
愛鷹山山頂・愛鷹明神の遥拝所、里宮として機能し、一体となったのだろう。
ということで、式内社・桃澤神社は、里宮である当社(下社)であったと思う。
ただし、式内社・桃澤神社として有力な論社は、
実際に沢の多い地域にあった、元長窪鎮座の桃澤神社で
当社は、純粋に愛鷹明神の里宮である可能性が高く、
当社を桃澤神社と称するようになったのは江戸末期からだという。
愛鷹山麓は神馬の牧場として有名らしく
建久五年、源頼朝が駿馬九十九頭を奉納したことが、その起源であるという。
明治八年三月郷社に列した。
愛鷹山(だと思う) |
社頭 | 鳥居 |
境内 |
拝殿 | 本殿 |
境内社殿 |
御由緒・沿革
愛鷹明神桃澤神社由緒
愛鷹明神として崇敬されており、愛鷹山頂(海抜一、一八八m)に奥宮(本社)、一合目宮本字元野(大坂)に中宮、青野に下宮の三社が愛鷹明神桃澤神社であります。御祭神は三社とも次の三柱の神様をお祀りしております。 ○瓊瓊杵命(ににぎのみこと) ○木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと) ○建御名方神(たけみなかたのかみ) 創建は愛鷹山縁起によれば、第七代孝霊天皇元年(紀元前二九〇年)、又一説には奈良時代、元正天皇霊亀三年(西暦七一七) 年)とも伝えられており、いずれにしても古い神社であります。 平安時代、後鳥羽天皇建久五年(西暦一、一九四年)源頼朝公が富士の巻狩りに際し、愛鷹明神が馬を愛でられるところから 神馬として駿馬(青色)九十九頭を奉献され此れが愛鷹山牧場の濫觴であると言われております。 戦国時代、正親町天皇、永禄・元亀・天正の頃、今川・武田両氏相次いで神馬を保護し愛鷹山一帯の芝地を神領とされた。 天下統一後の徳川家康も又今川・武田両氏に倣って神馬を保護されております。 江戸時代、中御門天皇享保七年(西暦一、七二二年)津田外記、愛鷹山中に放牧されている神馬を江戸幕府の経営にしようと 企てたが、愛鷹神主(奥津丹後)及び地元住民の反対に合い、漸く、光格天皇寛政八年(西暦一、七九六年)岩本石見守正倫 の検分により幕府直轄の牧場として経営、毎年六十〜一〇〇頭の馬を駿東、富士、伊豆及び相模(神奈川県)の各地に払い 下げ、毎年三頭を祭祀の料として愛鷹明神に献納した。江戸時代には、社領として除地高九石九斗二升、田畑六反七畝を 所有していたが明治維新、上地となった。 明治元年、明治天皇御東征の節、橋本少将、柳原侍従が勅使として当社に登拝され幣帛料を奉納され、同明治八年旧社格 郷社に列せられた。 境内地は奥宮(本社)七五〇坪、中宮一、〇五二坪、下宮二五〇坪である。例祭日は奥宮二月八日、中宮四月八日、下宮 九月八日、頂上奥宮と下宮とは凡そ三里(12km)である。 −境内案内板− |