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當麻戸神社
とうまとじんじゃ
山梨県韮崎市藤井町駒井1208  Zenrin Data Com Maps display !!


梶の葉


武田菱

旧郷社

御祭神
大酒解命 小酒解命
建御名方命 素盞嗚尊 大己貴命

山梨県韮崎市にある。
中央本線韮崎駅の北3Kmほどの藤井町駒井に鎮座。
中央本線線路の東側、尾鰭山の麓に境内がある。

参道入口は東向き。
参拝は四月の午後なので、ちょうど太陽に向って参道を歩くことになった。
参道を進むと石の鳥居が立ち、さらに進むと朱の鳥居。
どちらの扁額にも「當麻戸神社」と記されている。

当社の社号「當麻戸神社」は、
『平成祭データ』には「とうまと」とあり、『明治神社誌料』には「たまべ」とあって、
参拝中、僕はずっとトマト神社だと勘違いしていた。
また、尾鰭山に鎮座しており、尾鰭宮とも呼ばれている。

鳥居をくぐり参道を進み、黒沢川にかかる宮前橋をわたると境内。
入口には笠木の無い鳥居(冠木鳥居)。
境内に入ると神門があり、神門の奥に拝殿。拝殿の後方の高い位置に本殿がある。

社伝によると、欽明天皇二年(541)四月の創祀。
もとは大酒解、小酒解の二柱を祀っていたようだが、
甲斐国志には、諏方明神とあり、御朱印社領八石二斗余、社地九千七百二十坪、
鎮座地を尾鰭山といい、祭神は現在の五柱となっている。

神門と拝殿の間に小さな池があり、大きな石が置かれている。
「御供石」と呼ばれる石で、正月元旦にこの石の上に神饌を置くと
羽根に白いまだら模様のある烏が飛んできて口にくわえて飛び立ち、当社の神田に置くという。
神田は上・中・下にわかれており、どこに置くかによって、その年の豊凶を占ったという
「烏飼神事」が行われていたらしい。

境内の石碑によると、この烏飼神事は、安芸の宮島、信州の戸隠でも行われ、
当社を含めた三社を「日本三か所烏飼い霊場」と称え、
あいうえを人にしらすの烏かひ 世のよしあしを知ろしめす神」と謡われている。
(「人にしらすの烏」は「人にしら羽の烏」とする資料もある)

また、境内由緒には社殿後方に七囲余の老杉と記されているが、参拝時には気付かなかった。
ひょっとすると、今は無いのかもしれないが、当社の杉を武田信玄が
もののふのおひれの宮の世にふるき 志るしそたかき杉のひともと」と詠ったという。

若神子の諏訪神社の由緒によると、
当社駒井の当麻戸神社を下之社とし、穴山の穂見神社を中之社、
若神子の諏訪神社を上之社というとあり、三社が関係していたようだ。

境内の由緒石碑に梶紋が刻まれており、梶紋が諏方明神とも呼ばれていた当社の神紋なのだろう。
ただし、神門や社殿には武田菱と梶紋が付けられていたので、武田菱も掲載しておく。
当社も武田家の庇護を受けた神社なのだろう。

本殿の左右に多くの石祠の境内社が並んでいる。
詳細はわからないが、『明治神社誌料』には境内社として、
子安神社、厄王社、東照宮、琴平神社、大嶽神社、道祖神社、梵天社、伊勢両皇大神社、
天神社、八幡社、山神社、秋葉神社、三光宮、伊雑宮、霊神社、鎮札社、津島神社、
石尊社、稲荷神社、疱瘡神社、弁天社の名が記されている。


社域

石鳥居

朱の鳥居

宮前橋

参道

境内入口

神門

神楽殿

境内
神門、御供石、拝殿、神楽殿

拝殿

本殿

御供石

石祠

石祠

 社碑
 尾鰭宮當麻戸神社
鎮座地 韮崎市藤井町駒井字西御門一二〇八番地

素盞嗚尊
大己貴命
建御名方命
大酒解命
小酒解命

元旦祭 一月一日
祈年祭 二月二十一日
例大祭 四月十二日
新嘗祭 十一月二十三日
旧御朱印社領 高八石弍斗余
社地 九千七百弍拾坪
 御由緒
 欽明天皇二年の創祀と伝えられる
日本総国風土記第六三、甲斐国巨摩郡或高麗 の中に 當麻戸神社巨摩郷の西三百歩の外社 樹あり圭田四十三束 欽明天皇辛酉四月初め て祭る所 大酒解、小酒解神也、神家巫戸等 ありと見え 甲斐国志 甲斐名勝志などにも 尾鰭大明神 或は諏方大明神として当社由緒 の中に鎮座の地を尾鰭山と呼び、建御名方命  素盞嗚尊 大己貴命の合祀については、文禄 五年の棟札に、信濃国諏方郡南宮諏方大明神 是なりとあるところから後に奉祀されたもの と思われる
 社記に神社の祠後に七囲余の老杉あり、池 中に高さ一丈余 囲四丈余の石あり、御供石 と称す 正月元日神饌をこの石上に供すれば 白斑羽の烏ついばみ去りて神田におくを常と す。神田に上中下あり、そのおく所によりて 年の豊凶を卜す。之を烏飼の神事と云い安芸 の宮島、信州戸隠、甲州尾鰭宮を日本三ヶ所 烏飼霊場と世人これを称え、その俚謡に
 あいうえを人にしらすの烏かひ
  世のよしあしを知ろしめす神
 また古昔より戊寅の年を太神事執行の年次 として六十年に一度の大神事を厳修した神賑 はまれに見るものであったという。明治六年 郷社に列せられ、同四十年幣帛供進社として 指定されたが、戦後この制は廃せられた

−境内石碑−



【 當麻戸神社 当麻戸神社 (韮崎市)(印刷用ページ) 】

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