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印岐志呂神社
いきしろじんじゃ
滋賀県草津市片岡町245
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滋賀県草津市にある。
草津駅の北、道程で5Kmほどの片岡町に鎮座。
145号線脇が馬場になっているようで、
赤い大鳥居と「縣社印岐志呂神社」と刻まれた社号標が立っている。
境内入口は南向き。注連柱を通り神門をくぐると広く静かな境内。
参拝は、年末二十八日の朝。
境内では迎春準備のためか、氏子の方々が掃除などの作業中だったので
邪魔にならないように参拝。
境内中央に大きな入母屋造の拝殿があり、
拝殿の後方、瑞垣内に本殿などの社殿が並んでいる。
掃除中の氏子の方々と一緒に瑞垣内に入ったので、
いつも中に入れるのかどうかはわからない。
早朝に参拝すると、このように境内の掃除に遭遇する場合がある。
そんな時は、一声かけると、垣内に入れていただいたり、
普段は閉まっている拝殿内にも入れていただけるのがありがたい。
ただ、いろいろと気を遣わせてしまい、作業の邪魔になるので、
なるべくひっそりと目立たないように参拝している。
瑞垣内に幣殿があり、その奥に本殿。
現在の本殿は寛政四年(1792)に再建されたものらしい。
本殿の左右に境内社が四社並んでいる。
掃除の邪魔にならないようにしていたので、記憶があいまいで各社の名前に自信はないが、
本殿の右に二ノ宮(国常立尊、合祀の多賀社:伊册諾命)。
本殿左に三ノ宮(惶根尊)と小さな若宮(伊弉諾命)。
垣の隅に十禅師社(樹下神社:瓊々杵尊)だったと思う。
また境内右手に稻荷神社(稲荷大神)と恵比須社(大国主神、事代主神)。
境内西奥150mの場所に奥御前神社(別雷尊)が祀られている。
以前は虚空蔵堂だったらしい。
創祀年代は不詳。
社伝によると天智天皇の勅願により、大和国より三輪神を分祀し、
敏達天皇十三年栗太郡常盤村に社殿が造営されたという古社で、、
式内社・印岐志呂神社に比定されている大社である。
境内は芦浦町と片岡町の境にあり、
芦浦は安閑天皇の御代、屯倉が置かれた場所。
古くから農耕が盛んな土地の農耕神として祀られた神社だと考えられている。
『和漢三才図会』には七カ村の氏神で狐を神使とするとあり
穀霊である稲荷神としての性格を持っていたのかもしれない。
ただし、現在は本殿前に神鶏の像が置かれ、鶏を神使としているようだ。
また、社伝によると、
用明天皇即位二年夏、悠紀(ゆき)地方に定められ印岐志呂と名付けられたとある。
ただ『太平記』などには、伊岐洲、伊岐須、伊幾須などと書かれ、
「イキス」とも称されていたらしい。
鹿島の息栖(いきす)社は「沖洲の津」の意味らしいが、
湖岸に近い当社と何か関連がありそうな気もする。
また、当社の西、琵琶湖側に風神を祀る志那神社が鎮座しており、
風の強い地方の息吹きの神を祀っていることにも関連しそうな気もする。
永暦年中、源義朝尾州攻略の時、頼朝の武運を当社に祈願し、
建久元年、その報賛のため頼朝が社殿と神田を寄進。
建武三年正月、比叡山僧宥覚が山門の義徒一千余人を率いて足利軍高師直と戦い、
さらに脇屋義助が足利尊氏の将京極道誉と戦って戦場となったため社殿焼失。
後、足利尊氏によって再建された。
また、織田信長の佐々木攻めにより社殿が焼失。
慶長四年、芦浦観音寺の詮舜が再建。
中世以降は、湖東平野に散在する延暦寺領の年貢を収納する出先機関であり、
琵琶湖湖上交通に関する権益で権力のあった観音寺の支配を受け、
代々の観音寺住職によって社殿の造営が行われた。
境外の田の中に、一夜伏塚と呼ばれる塚があり
伊岐志呂神の神塚と伝承されているらしい。
明治九年十月郷社に列し、大正六年七月二十一日県社に昇格した。
本来祭神は大己貴命一柱だったが、明治四十三年四月二十三日、国常立尊を配祀した。
当社の神紋は左三つ巴紋。
境外社には
新堂町の日吉神社、十里に小安羅神社、大将軍神社、
大門に八幡宮、横江に樹下神社、長束に春日神社、
芦浦柿に大将軍神社、芦浦西に若宮神社、
下寺に天満神社二社、下物に天満宮、穴に安羅神社などがある。
参道(馬場)に大鳥居と社号標 |
境内入口の注連柱 | 神門 |
境内 |
瑞垣内に社殿 |
十禅師社、若宮、三ノ宮 | 本殿、二宮 |
拝殿脇から社殿 |
稲荷社 | 恵比須社 |
奥御前神社 |
滋賀県草津市片岡町鎮座 印岐志呂神社
當神社は延喜式神名帳所載かつ國史現載の
名社にして天智天皇の勅願により大和三輪の大社よ
り御移祭あらせ給う近江國粟太郡常盤村
大字片岡字伊岐州に宮柱太敷立て高天原に
千木高知れる伊岐志呂大神と称し奉り大
己貴命又の御名は八千戈之神又は葦原之醜男とも
申し奉り御神の御勇氣は八千戈の如く此神
一度勇を振い給はゞ人恐れて面を合すること能は
ざる実に武勇全備の御神なり我皇國の武を講
じ國を治むる人誰か尊崇せざる者あらんや又
御神は大國を守り給う御神なりとて家毎に
ご尊像を祀り日々崇拜すること我國の古風なり
地は是れ用明天皇即位二年夏悠紀方に定め
られし聖地にして伊岐志呂の名これより始まる
と云う醍醐天皇延喜御制定の時小社として
祭らせ給い粟太八座の一に加えられし名社なり御祭神 大己貴之命又の御名大國主命 社歴概要 尓来皇室の御崇敬も篤く仁寿元年正月 神位正六位に叙せられ累進し陽成天皇の御宇 元慶元年五月十九日正一位に宣下あらせ給う 永歴年中源義朝尾州攻落の時頼朝野路の宿より 遙かに大神を拜し奉り武運の長久を祈らる 建久元年十一月頼朝神殿神田を寄進せらる建 武二年十二月足利尊氏逆心の時此江山の僧道場 坊宥覺山門の義徒一千余人を語い尊氏の軍と 戦い一夜の中に攻亡さる其の時社殿炎上足利 氏再興す降って元亀三年織田信長佐々木攻伐の 時兵馬神地に乱入す此の時古記神宝散逸せり 慶長以後地頭観音寺家より屡々社殿造営せらる 豊臣家の忠臣長束大蔵大輔及領主六角左京之 大夫高頼等社殿を造営せらる又徳川家康大阪 出陣に當り品街道を進軍し親しく社前に額き 武運長久の祈願せられたりと云う
−参道由緒書− |