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久々比神社
くくひじんじゃ
兵庫県豊岡市下宮318−2
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式内社 但馬國城崎郡 久久比神社 |
兵庫県豊岡市にある。
豊岡駅の北東3Kmほどの下宮に鎮座。
円山川を東へ渡り、178号線と312号線が合流するあたり。
少し北へ入った場所に南向きの境内。
境内前には、下ノ宮川が流れ、オレンジ色の欄干の橋を渡る。
鳥居をくぐり参道を進むと、さらに鳥居。
その先に、割拝殿というのか、潜門というのか
そういう建物があり、
その奥が社殿のある境内。
参道正面には、入母屋造りの拝殿。
拝殿の後方に、秀麗な流造の本殿がある。
この本殿は昭和四十六年一月から翌三月までかけて
大掛かりな解体修理が行なわれ、
永正四年(1507)に再建されたものと判明している
中世中期の特色を示すもの。
棟札によって、その後、
元禄十五年(1702)、正徳元年(1711)にも
一部の修理が行なわれたことも。
社号の「久久比」は、「鵠:くぐい」の意味で
コウノトリの古称らしい。
豊岡市は、コウノトリで有名な街なのだ。
創祀年代は不詳。
祭神は、久久比の社号からか、久久遲命とされている。
もとは胸形(宗像)大明神とも称した古社で、
多紀理比売命を祀るという説もある。
また、『日本書紀』垂仁天皇二十三年によると、
垂仁天皇の皇子・誉津別王は、
30歳になっても言葉を喋らなかったが、
ある日、空を飛んでいる鵠を御覧になり、
初めて何物であるかと仰った。
天皇は大いに喜ばれ、天湯河板挙命にこの鵠の捕獲を命じられた。
天湯河板挙命はこれを追い、出雲で捕えたとも
当地、但馬で捕えたとも伝えられ
その功績によって、鳥取造の姓を賜ったという。
その天湯河板挙命を祭神とする説も。
拝殿の左右に、内側を向いて境内社がある。
右手の境内社は、八幡社(事代主命)。
左手には、三柱社(少彦名命)と稲荷社(保食神)。
境内の西側の田に、幾羽かの鳥が居た。
コウノトリの生息地という案内があったので、
急いで車に戻り、望遠レンズを付けて撮影したが、
ネットで調べてみると、アオサギだった。
いくら有名でも、簡単にはコウノトリを見ることはできないのかも。
境内入口 |
鳥居 | 参道と鳥居 |
割拝殿、あるいは潜門 | 潜門から境内 |
境内 |
社殿 | 本殿 |
境内左の境内社 | 境内右の境内社 |
本殿は墨書によって永正四年(一五〇七年)に再建されたものであることが知ら れ、三間社流造り・杮葺の構成様式で建物の構造細部技法・絵様刳型等も室町時代 中期の代表的様式を示している。社殿の全容は近隣に於ける屈指の臣社にして正に 秀麗、特に蟇股の彫刻がすぐれ東西両側の正面よりの蟇股には三つの蕊の桐が彫刻 されている。さらに斗・肘木・龍鳳象獅の彫刻など他に比類なく、 その道の推賞のまとである。 久久比神社の鎮座する下宮は 昔より鵠(くくい:コウノトリの 古称)村と言われていたように、 古来より国の特別天然記念物 「コウノトリ」が数多く大空を 舞っていた地域であり、日本書紀に よれば天湯河拳命がこの地で 「コウノトリ」を捕まえたと言う説が伝わる。 −境内案内− 御由緒
創立年月は不詳であるが、延喜の制では、式内社、城崎郡二十一座の内、小社に列している古社である。 垂仁天皇の皇子、誉津別王は、年三十歳になっても物を言われなかったが、ある日、空を飛んでいる鵠をご覧になり、初めて何物であるかと仰せられた。天皇は大いに喜ばれ、天湯河板挙命にこの鵠の捕獲を命じられた。命はこれを追って、但馬国で捕え、天皇に献じたという「日本書紀」の記述と神社の創立は、何か関連あるものと考えられる。 古来、森林守護の名社として名高く、また、下宮、鎌田、庄境、中庄境、栄町、祥雲寺の六部落の氏神として崇敬を集めている。 −『平成祭データ』− |