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鸕宮神社
うのみやじんじゃ
三重県伊賀市島ケ原4689
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式内社 伊賀國山田郡 鳥坂神社 |
三重県伊賀市にある。
島ケ原村駅の北東1Kmほど。中学校の隣の丘の上に鎮座。
三重・京都・滋賀の県境に近い場所にある。
道路そばに参道入口があり、鳥居の横に大きな石灯籠が目立つ。
125段の階段を登ると、正面に社殿。
参拝当日は社殿の修築中のようで、社殿周りに足場が組まれ、
職人が作業中だったので、邪魔にならないように参拝。
当社の勧請に関する伝承がある。
奈良東大寺の二月堂で行われた修二会に、
全国の神々が勧請されたが、若狭の遠敷明神が、
釣りをしていて、遅参した。
その償いとして、遠敷明神は、実忠和尚の夢枕に立ち、
毎年修二会の行法に、若狭の清水を献ずることを約束した。
すると、二月堂参道下の岩が裂け、二羽の鵜が飛び立ち、
清水が湧き出したという。
そこで、実忠和尚が祀ったのが鸕宮社で、
その後、二月堂の鸕宮社を正月堂の東南に勧請したのが当社。
祭神は、事代主命。
なぜ、素直に遠敷明神としないのか不思議だが、
創祀伝承から「釣りをしていた神」として有名な
恵比寿様(事代主命)があてられたのだろうか。
遠敷明神である若狹彦神社の祭神は、彦火火出見尊。
事代主命と同じく、恵比寿様と考えられている神だ。
合祀の祭神が多いのは、三重県の神社に共通するもので、
明治の合祀による。
神紋は、恵比須神社の紋・三つ柏紋。
本殿の屋根に付いていた。
境内入口 |
参道階段 | 上から | 境内の鳥居 |
境内 |
境内 | 本殿 |
鸕宮神社由緒記
当社の祭神は、事代主命外十四柱で創立由来は、天
平勝宝四年(七五二)奈良東大寺の実忠和尚が開創さ
れた村内にある正月堂との関係が深い。南都に於いて、二月三日両堂を開基され、二月堂で の修二会(しゅにえ)の行法に全国一万三千七百余所の 神々を勧請の際、釣りをしており遅参した若狭国遠敷 明神が後悔され、実忠和尚の夢枕に立って、若狭の清 水を毎年修二会行法中観世音に献ずる旨伝えたところ 二月堂参道下の岩石が裂け、白黒二羽の鸕(う)が裂け目か ら飛び立ち、清水がこんこんと湧き出したという。 このことから修二会の行法が「お水取り」の名で有名 になり、実忠が感銘して遠敷明神を良弁杉の下に祀り、 鸕に因んで「鸕宮神社」と称し衆庶大いに尊敬した。 是に於いて正月堂の修正会と二月堂の修二会が略同 じ行法の厳修をする関係で、二月堂の鸕宮社を正月堂 東南の地(現在地)に奉祀したら神妙なるべし、又南都と 相似たりと勧請したのである。 菅原道真公を奉祀した由来は、天正十一年二月二十五 日の洪水の際流れ来て、上川原の梅樹に止まられたの を里人邸内社に合祀したが、夢のお告げにより、雷除 天神として鸕宮神社に合祀し、雷除の霊験あらたかに して、寛文六年五月神恩奉謝の意をこめて奉献した、 四角灯籠が拝殿左裏に建てられている。 表参道口左側の巨大な石灯籠は、高さ五、二メートル、 重さ五四、二トン、建立は天保十四年で、田畑、山林 が混雑し相続にも困る状態で、八ケ年掛けて畝高を改 め、無事終ったのを記念し、村人が木津川から運び米俵 を持寄り積み上げたと伝えられている。 この四角灯籠と石灯籠は村指定文化財である。 −社前案内板より− 鸕宮神社御由緒
事代主命、大那牟遲命、神倭磐餘彦命、菅原道真、木花咲夜比賣命字谷尻村社鸕宮神社の鎮座にして由緒は「明細長」に「創立由緒不詳ト雖モ延長風土記曰ク嶋ヶ原山出松竹柏有異鳥有神號天王社事代主之垂跡也 土俗傅ニ曰ク人皇四十七代廢帝ノ御宇皇上近江保良都ヨリ南都ヘ御幸ノ際當村ニ御休憩アリテ一ノ堂宇ヲ建設セント良辨僧正ニ命シテ観音堂建築セシメ是ヲ正月堂ト稱ス(今ノ観音提寺是ナリ)後南都ニ於テ二月三日ノ兩堂ヲ開基セラレタリ而シテ其ノ二月堂ノ香水ノ井邊ニ鸕宮神社アリ事代主之神ヲ祭リ衆庶大ヒニ尊敬スト是ニ於テ里民鸕宮ノ神ヲ迎ヘ正月堂ノ近辺ニ奉祀セハ南都ト相似タリトテ此地ニ勧請スト云フ 本社ニ菅公ヲ奉祀セシ所以ハ天正拾壱年弐月弐拾五日洪水ノ際流レ來リテ字上川原ノ梅樹(今ニ古梅樹一棟ヲ存ス)ニ止マリ給フニ依ル蓋シ何ノ地ニ座セシヲ知ラスト雖モ菅公御自作ノ木像ナルコト明ナリ」とあり市杵島姫命以下の九柱御祭神は明治参拾九年同四拾年に各地より神社合祀の當時合祀セシモノ −『平成祭データ』− |
【 うの宮神社 鸕宮神社 鵜宮神社 (伊賀市)(印刷用ページ) 】