[HOME]  >  [神社記憶]  >  [中国地方]  >
メニューを表示する 表示用ページ


佐太神社
さだじんじゃ
島根県松江市鹿島町佐陀宮内72  Zenrin Data Com Maps display !!

南殿

亀甲


中殿

地紙


北殿

輪違

朱印のページへ!!

式内社 出雲國秋鹿郡 佐陁神社
旧國幣小社

御祭神
南殿
亀甲紋
中殿
地紙紋
北殿
輪違紋
 
素盞鳴尊
秘説四座
佐太御子大神
伊弉諾尊
伊弉冉尊
事解男命
速玉男命
天照大神
瓊々杵尊
現在
熊野大神
大穴持命
佐太大神 瓊々杵尊
伊弉冉尊
天照大神
『出雲風土記鈔』
伊弉諾尊 瓊々杵尊 伊弉冉尊 『佐陀大明神御本躰ヲ智事』
水蛭子尊
素盞嗚尊
伊弉諾尊
伊弉冉尊
天照大神
月神
神能『大社』
月神
蛭子尊
素盞嗚尊
伊弉諾尊
伊弉冉尊
瓊々杵尊
天照大神
天赤女
『佐陀大明神縁起』
五男 外一座 阳阴
速玉之男
事解男
天照大神
皇孫命児屋命 太玉命
『秋鹿郡佐田大社之記』
素盞鳴尊
秘説四座
伊弉諾尊
伊弉冉尊
事解男命
速玉男命
秘説
天照大神
月弓尊
『雲陽誌』

合祀 式内社
出雲國秋鹿郡 宇多紀神社 下照姫命
境内 式内社
出雲國秋鹿郡 日田神社 稲田姫命
出雲國秋鹿郡 御井神社 未詳
出雲國秋鹿郡 垂水神社 罔象女神

松江市の中心部から北西へ。
佐陀川にかかる橋の西に鳥居があり、駐車場の奥に社殿。
垣内には、3つの社殿が東向きに並んでおり、その左右に境内社がある。

当社の祭神に関しては、複雑だ。
出雲風土記には「佐太御子社」、延喜式神名帳では「佐陁神社」とあり、
祭神は一柱。「佐太大神」あるいは「佐太御子大神」となるはず。
しかし、その後の解釈で、多くの神々が加えられ、変化している。

「佐太御子」とあるので、その親神「佐太大神」が別に存在するはず。
当社が「佐太御子」ならば、風土記にあるように、
朝日山(当社の西2Km)の麓に「佐太大神の社」があったのか。

佐太大神は、神魂命の御子・枳佐加比売命の御子。
加賀の神埼で出産の時、弓矢がなくなった。
枳佐加比売命が「この御子が、麻須羅神の御子ならば、弓矢よ出て来い」と
云ったところ、水の中から角の弓矢が流れてきた。
御子神に見せ、「これではない」と投げ捨てる。
すると今度は金の弓矢が流れてきた。
枳佐加比売命は、それを手にとり「暗い窟であることよ」と云って、
射放つと、窟が貫通し光輝いたという。

この「麻須羅神」こそが、「佐太大神」であるかもしれない。

従来、当社が「秘説」としてきた主祭神を、
明治になって、松江藩から「猿田彦神」と明示せよと指示があった。
折衝の末、「佐太御子大神」と明示することとなった。

前回の参拝は、神在月だった。
「お忌みさん」と呼ばれる祭で、垣の周りに注連縄で結界し、
神々の来臨を待つ。

垣の南北に境内社があるが、どれがどれかはわからない。

また、南境内社の隣に社日があり、その奥の階段を登ると
垣の中に、石が祀られていた。社務所で聞くと、
イザナミを祀っているそうで、末社だということ。


鳥居と駐車場

神在月の風景

境内

神門

三社殿

南殿

中殿

北殿

南境内社

北境内社

裏山の祭祀

石が祀られている

佐太神社 旧国幣小社
八束郡鹿島町佐陀宮内 山陰本線 松江駅より北方八粁
祭神(中殿)佐太大神 事解男命 伊弉諾尊 速玉男命 伊弉冉尊
(北殿)天照大神 瓊々杵尊(南殿)素盞鳴尊 秘説四座
例祭 九月二四日〜二五日
神紋(中殿)扇の地紙(北殿)輪違(南殿)亀甲
本殿 大社造 二八坪 境内 一二三八七坪 末杜 一六坪
宝物 檜扇 色々威五八間筋兜 鎧 色々威胴丸兜大袖付 色々威腹巻兜大袖付(以上重文)、銀蛭巻の薙刀(県文化財)御供台三(重美)
氏子 七○戸
神事と芸能 神在祭(お忌祭)一一月二○日二五日迄、佐陀神能(九月二五日)
由緒沿革 当社は導大神であって佐太大神社、或は佐太御子社と云い延喜式に佐陀大社と記されてから社号も佐陀大社となった。別に八百万の神々をお招きしてお祭りするところから神在の社とも称えられている。垂仁天皇五四年夏始めて正殿式造営あり、貞観一三年従四位下に昇叙。北多、御井、宇多紀、宇智、垂水、大井の六宮社も未社となり、秋鹿郡神戸里神領となり遂に後鳥羽院御起請の庄園となった。また後鳥羽院より「正一位佐陀大明神」の勅額を賜う。社領七百貫後文永の頃には三四○町歩余に及び出雲二宮と仰がれるに至った。掘尾吉晴藩主となるや本領の内二百石を寄進。貞享年中藩主松平綱近、正殿式造営をなす。明治四年佐陀神社と改め、同六年県社同一四年佐太神社と改め、昭和一二年国幣小社に昇格す。(神社本庁別表神社)

−『神社名鑑』−

佐太神社 島根県八束郡鹿島町。旧国幣小社(現、別表神社)。『出雲国風土記』に「佐太の大神の社」と見え、佐太大神は神魂命の子、支佐加比売命の子で、八束郡島根町加賀の岩窟にて生まれ、佐太の地に宮居され、佐陀地方一円の祖神で地名をもって尊称する。『延喜式神名帳』(九条家本)、『伊呂波字類抄』などには佐陁大社と大社号を付す。本殿は三殿並立の大社造で、中殿に佐太大神・伊弉諾尊伊弉冉尊速玉之男命事解男命、北殿に天照大神瓊々杵尊、南殿に素盞鳴尊、秘説四座の神々を祀る。『三代実録』によると、貞観元年(八五九)従五位下に叙せられ、同九年正五位上、同一三年従四位下に昇叙する。後鳥羽院よりの「正一位佐陁大明神」の勅額を掲げたと伝え、鎌倉時代は佐陁神宮寺領をもって後宇多院領となった。守護・領主・藩主の崇敬篤く、寄進・社殿造営が行われ、室町時代より島根・秋鹿・意宇郡西部にまで支配権が及び、杵築大社(出雲大社)・日御碕神社とともに出雲三大社と称された。神事・宝物も多い。九月二四日の御座替神事は、一九日より恵曇の浜で斎戒し、二四日夕刻より摂末社を始めて南北中殿と及ぶ。翌日は例大祭。タ刻より催す神事能(七座の神事。一二段の舞〈県無形文化財〉)は、備中神楽歌の文句からしても、諸国神楽に影響を与えた。五月三日の直会祭はやぶさめ神事、さるだ三番の祭(日時に庭上では獅子舞)、勅使参向直会神事を行う。一一月二○日〜二五日は神在祭、五月二○日〜二五日は神在裏月祭を行う。他に管粥祭(二月一五日)、お田植祭(九月二四日)など行われる。指定をうけた宝物のみ示すと、色々威胴丸兜・大袖付付鎧唐櫃・色々威五十八間筋兜・色々威腹巻・兜大袖付・彩絵槍扇・竜胆瑞花鳴蝶文彩絵箱<以上重要文化財>、蛭巻薙万拵・野太刀(二振)・御供台三基・舞楽面(陵王)・線刻十一面千手観音鐘像・着彩阿弥陀来迎図鏡像<以上県指定文化財>。当社付近は佐陀溝武貝塚をはじめ、弥生式遺跡があり、銅鐸・銅鉾も発見されている。

−『神社辞典』−

佐陀(佐太)大社 秋鹿郡(八束郡鹿島町佐陀宮内)
祭神四座 正殿〔前は〕伊弉冊尊  両殿〔南は〕素盞鳴尊
       〔後は〕伊弉諾尊    〔北は〕瓊瓊杵尊
 摂社
氏神社   神殿の傍らにある〔神主の祖神〕。
田中社   神殿の近所二町ぱかりにある〔深秘の社〕。
道祖神   以上三社は北殿の摂社である。
恵曇社(恵曇神社)(八束郡鹿鳥町恵曇町)
五十田佐社 以上二社は南殿の摂社である。
神魂社   これは正殿の摂社である。(松江市大庭町にある)
外に、大庭、八重垣(八重垣神社。松江市佐草町)などの宮がある。池泉〔稲田姫が化粧の水とする〕がある。稲田姫・手摩乳・脚摩乳社がある。(『国花記』にょる)

−『和漢三才図会』−



【 佐太神社(印刷用ページ) 】

ボーダー




no index